日本書紀の謎を解く・133 (三つの船山 2)

大伴狭手彦と大伴磐はやはり反対だった可能性が高くなっています。つまり今まで古代ヤマト王権の水軍の宰は大伴狭手彦としていましたが水軍の宰は大伴磐に変わる可能性があるということです。今までこの兄弟をあっちでもない、こっちでもないと何度か名前をひっくり返してきたので、今回ははっきりするまでは書かないことにします。
また大伴磐の名前が日本書紀に出ているのは宣化二年にたった一度しか出てこないのはなぜか、何を意味するのか合わせて考えなければならないと思っています。ただ穂積磐弓として吉備白猪の屯倉のところには名前が出るのですが。
とりあえずはっきりするまでは「海人の宰海幸彦」と「山の司山幸彦」で表現していきます。
ただその一方で、これまで山幸彦だろうと考えてきた分身が次から次に父大伴金村にくるりと反転し始めていて、頭を抱えているところなのですが、ただよくよく考えてみれば大伴金村は安閑天皇と同い年の可能性があって、それならば継体天皇が崩御した時には大伴兄弟はまだ十代か、やっと二十代に入った頃ということになります。継体天皇治世にまだ彼らは本格的に歴史の表舞台には出てきていないということです。何故そこに今まで気がつかなかったのか。
また宣化二年に記された大伴親子、兄弟の関係を示す記録は嘘で、磐と金村が同一人物ではないかとか、あるいは磐と狭手彦が同一人物なのではないかという疑問すらわいてきます。
一つ一つの資料をもう一度読み直していくしかありません。

今日は以前発表した「三つの船山」に関して、新たに気がついたことがあるので今日は書いてみたいと思います。


出雲国風土記・船岡山
郡家の東北一里一百歩。阿波枳閇委奈佐比古命、曵き来居ゑし船、此の山、是なり。故、船岡山と云ひき。

播磨国風土記・引船山
近江天皇の世、道守臣、此の国の宰として官の舟を此の山に造りて、引き下さしめき。故、舟引と曰ひき。此の山に鵲住めり。一は韓国の烏と云ふ。

肥前国風土記・亘理郷
昔者、筑後国の御井川の渡瀬、甚広く、人も畜も渡り難し。茲に纏向日代宮に御宇しめしし天皇、巡狩しし時、生葉山に就きて舟山と為し、高羅山に就きて梶山と為して、舟を造り備へて、人物を漕ぎ渡しき。因りて亘理郷と曰ふ。


今回書くのは一番はじめに紹介している出雲国風土記・船岡山についてです。何度も読んできた文章なのにこんな重要なことに気がつかなかったのかと、今更ながら本当に驚いています。
委奈佐比古(いなさひこ)のイナサは鯨を意味します。この鯨が舟を曵いてきて山に据えた舟が此の山であるというのは意味が通じませんが、ここは細かいことは言わずに、ここは鯨が山に上がったというところに注目するのです。つまり山の鯨ですから、山鯨、つまり猪を意味しているのです。

この三つ舟山を総合して考えてみると、次のキーワードが浮かび上がります。

出雲国風土記・・・山鯨(猪)
播磨国風土記・・・鵲、韓国の烏、播磨国の宰道守臣
肥前国風土記・・・生葉山

風土記の編纂者たちはこれらのキーワードから何を導き出したいのでしょうか。
まず肥前国風土記の生葉山は的臣(いくはのおみ)を意味します。的臣は仁徳十二年八月条の記録から的臣の名前は盾人だとわかります。この盾をキーワードとしてつないでいくと彼の分身が浮かび上がります。この盾が名前についている人物の一人が清寧紀、顕宗紀に登場する前播磨国司(はりまのくにのみこともち)山部連の先祖(やまべのむらじのとほつおや)伊予来目部小盾(いよくめべのをだて)となります。前播磨国司とあるので播磨国風土記の「此の国の宰(みこともち)として」で一致します。
ただこの小楯のまたの名前は磐楯とあるので父の金村か、息子の磐か。少し前までこの「又の名磐楯」で大伴磐と考えていたのです。小楯で盾人の子供と考えていいのか。実はこれによく似ているのが「磐鹿六雁」です。この名前を私は「磐と鹿、睦たり」ではないかと考えているのですが、「睦」が本当に睦の関係を表しているのか、同一人物を表しているのか、まだはっきりした答えは出ません。

また「的」と書いてイクハとは本来絶対に読めません。これは的臣が仁徳十二年条で高麗が献上した鐵(くろがね)の盾と的を射抜いたことから、彼を「弓の名手」であることを強調するために「イクハ」に「的」の漢字を当てたと考えられます。現在のうきは市こそ彼の拠点だったのではないかと思います。またここから「弓の名手」も分身を探る重要な手がかりとなるのではないかと思いました。弓の名手といえば欽明紀に登場する筑紫国造鞍橋君です。かれは百済王の窮地を弓で救ったことから鞍橋(くらじ)君と名付けられます。クラジといえば神武紀に登場する倉下(くらじ)です。そして的臣の名前盾人は現在筑紫磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳の張出部に配置された石人を思わせる名前です。
日本書紀には磐井は筑紫国造とされますが、風土記では筑紫君とされます。どちらが本当かわかりませんが、私は「弓の名手」から「的臣」「筑紫国造」へ繋げ、さらに「磐井」へつなげたいのだと思いました。磐井という名前の人物は崇峻天皇暗殺のところにも登場します。崇峻天皇を暗殺した東漢直駒の父親です。駒は馬の子です。蘇我馬子の父が磐井なのです。
筑紫国造磐井の息子は葛子です。崇峻天皇暗殺の場面に登場する東漢直駒の父は磐井です。駒は馬の子ですから蘇我馬子とし、葛子から葛城襲津彦が導かれます。推古紀の記録から蘇我馬子と葛城襲津彦は同一人物だとわかっています。

(父)筑紫国造磐井・・・(子)葛子・・・葛城襲津彦
(父)東漢直 磐井・・・(子)駒・・・・蘇我馬子

次に播磨国風土記で、鵲(かささぎ)は韓国の烏というとあります。広辞苑を見ると、この鳥は朝鮮半島から日本は佐賀平野を中心に北九州に生息するあります。ですからこの記録が播磨国風土記に記されるのはおかしいと以前のブログに書きました。
さらに広辞苑には鵲はズズメ目カラス科で黒色で金属光沢があると記されます。ここから頭八咫烏がイメージされます。頭八咫烏は神武天皇を導いたわけですから道臣となります。道臣は風土記の中で道主や道守臣などと様々に表記が変わりますが「道」が付いていたら同じだと考えます。つまりこの人物は大伴氏ということです。
また烏の文字が入っている人物として中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)がいます。烏賊(いか)という漢字の中に烏(からす)が入っています。
中臣といえば当然後の藤原氏ということになります。
実は私が少し前まで住んで散歩コースだったところに椋橋総社(くらはしそうじゃ)(大阪府豊中市庄本町一丁目)という神社があったのですが、鞍橋と椋橋、読み方は違いますがこの二つの神社がどうも気になって仕方がないのです。
そこでWikipediaで調べてみたら摂関家に大変深い関わりがある神社だとわかりました。
椋橋総社は摂関家領椋橋荘の中央である荘本(庄本)に鎮座。また椋橋部連の祖伊香我色乎命が崇神七年十一月に斎い定め祀ったそうです。また神功皇后が新羅へ出発の時神々をこの神社の神庭に集め勝利をお祈りになった神社ということです。
伊香我色乎と中臣烏賊津使主はイカつながりです。崇神七年は継体七年と見ていいでしょう。しかし継体は七年二月に崩御していますから、この神功皇后は実は称制を開始した勾大兄皇子のことでしょう。
また神功皇后の新羅出兵にまつわる話として播磨国風土記の飾磨郡因達(いだて)の里があります。この記録は現在兵庫県姫路市総社本町にある「射楯兵頭神社」の記録と思われます。この射楯という漢字は「弓の名手、的臣盾人」を思わせます。兵頭、盾という言葉からは物部氏を思わせます。滋賀県伊香郡に物部の里があるので中臣氏は実は物部氏でもあったということなのでしょう。
中臣烏賊津使主と的臣が同一人物というのは、允恭七年十二月条と仁徳三十年十月条の記録がそっくりなので庭に伏している中臣烏賊津使主と的臣は同一人物だと考えました。

これら大部分は少し前まで大伴磐だと考えていたものですが、どうやら父親の金村の可能性が高いようです。


なお出雲国風土記・船岡山で阿波枳閇委奈佐比古の阿波枳閇の意味ですが、未だにはっきりしませんが「阿波」「枳」「閇」と分けて考えています。もう一つは、「阿波枳」で伊弉諾尊が禊をした「日向の小戸の橘の檍原」のアハキハラを意味する可能性があるかもしれないとも考えていますが。
逸文・阿波国風土記の内容みるとこの人物に関係しそうな記録もあるようです。
「奈佐浦」はどうという内容もないのですが題名だけで委奈佐に気づいてほしいような気がします。また「アマノモトヤマ」は「ソラヨリフリクタリタルヤマノオホキナルハ、阿波ノ国ニフリクタリタルヲ」から「山の大きなるは」は大山祇神を連想しますし、「空より振り降る」の空は「空国(からくに)」を連想させます。
任地の一つに阿波国があったのかもしれません。また阿波は安房かもしれませんし、粟かもしれません。播磨国風土記では宍粟郡が宍禾と、粟から稲(禾)に変わっているので何か伝えたいことがあるのではないかとも思います。

また「枳」はカラタチバナで「橘」を意味すると考えていいと思います。大伴金村は穂積押山と同一人物で、穂積押山の娘が弟橘媛、葛城襲津彦から作られた分身が葛城王橘諸兄ですから大伴金村一族は実は橘氏でもあるわけです。また閇は閉のことなので阿閉氏を指すのではないかと考えています。雄略三年夏四月条に阿閉国見が楮幡皇女と廬城部連武彦が不義を働いたことを讒言する場面があります。私はこの場面は、勾大兄皇子の愛情が弟橘媛から継体天皇の皇后春日山田皇后に移り、娘弟橘媛が嫉妬に悶え苦しんでいるのを見かねて父穂積押山(大伴金村、阿閉国見)が天皇に讒言をした場面だと見ています。
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最後にもう一つ鯨に関する常陸国風土記・行方郡の記録を紹介します。

南に鯨岡有り。上古の時に、海鯨、匍匐ひて来たり臥せり。栗家の池有り。その栗大きにあれば、以ちて池の名とす。北に香取の神子の社有り。

ここでわざわざ海鯨と書いてクジラと読ませているのが印象的です。海の鯨が陸上に上がって山となる。つまり山鯨(猪)が言いたいわけです。栗は逸文・日向国風土記の韓槵生村(からのくしふのむら)に関係があるか、栗隈王をさすのか、まだはっきりしません。
また香取は香取神宮のことなのですが、神代第九段一書第二に「此の神、今東国の楫取の地に在す」とあって楫取(かじとり)を香取と読ませています。楫取をそのまま水軍と解釈してもいいのですが、民俗学研究者吉野裕子氏の説をとって「楫取」を「梶取」とし、これを蛇取りと解釈すると(『蛇』p209 )、雄略七年秋七月条の少子部連螺蠃(ちいさこべのすがる)となります。彼は御諸山の神の姿を見たいという天皇の命令を受けて大蛇を捕らえてきます。このことで彼は名前を雷に改めました。雷大臣を少子部螺蠃だとすれば、岩波書店の日本古典文学大系「日本書紀 上」の補注8-6、允恭七年十二月条の注9から、雷つながりで烏賊津使主、伊香津臣も同一人物となります。
螺蠃(すがる)は古い言葉で鹿を意味します。鹿も猪も、どちらも古代人が食用としてきた代表的な獣肉です。これら食用獣のことを昔の人は宍(しし)と言いました。
このように連想を次から次につなげながら分身を作り上げているようです。

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