日本書紀の謎を解く・130 (三つの巨木説話)

前回のブログで、「楠」の巨木が朝日には淡路島を、夕日には大倭嶋根を覆ったという播磨国風土記の逸文「速鳥」を紹介しましたが、これと良く似た巨木の話が日本書紀や逸文・筑後国風土記にもあります。

(A)景行十八年七月条
筑紫後国の御木(みけ)に到りて、高田行宮(たかだのかりみや)に居(ま)します。時に僵(たふ)れたる樹あり。長さ九百七十丈。百寮(つかさつかさ)、其の樹を蹈みて往来(かよ)ふ。時の人、歌(うたよみ)して曰はく、

朝霜も 御木のさ小橋 群臣 い渡らすも 御木のさ小橋

爰に天皇、問ひて曰はく、「是何の樹ぞ」とのたまふ。一の老夫(おきな)有りて曰さく、「是の樹は歴木(くぬぎ)といふ。嘗(むかし)、未だ僵(たふ)れざる先に、朝日の暉(ひかり)に当りて、則ち杵嶋山を隠しき。夕日の暉に当りては、亦、阿蘇山を覆(かく)しき」とまうす。天皇の曰はく、「是の樹は神(あや)しき木なり。故、是の国を御木国(みけのくに)と號(よ)べ。

(B)逸文・筑後国風土記「三毛郡」
公望の私記に曰はく、案ずるに、筑後国の風土記に云ふ。三毛郡。云々。昔者、楝木(あふち)一株(ひともと)、郡家(こほりのみやけ)の南に生ひき。其の高さは九百七十丈なり。朝日の影は肥前国藤津郡の多良(たら)の峰を蔽(おほ)ひ、暮日(ゆふひ)の影は肥後国山鹿郡の荒爪の山を蔽(おほ)ひき。云々。因りて御木国と曰ひき。後の人、訛(よこなま)りて三毛と曰ひて、今は郡の名と為す。

(C)逸文・播磨国風土記「速鳥」
播磨国の風土記に曰ふ。明石の駅家。駒手の御井は難波高津宮の天皇の御世、楠、井の上に生ひたりき。朝日には淡路島を蔭(かく)し、夕日には大倭嶋根を蔭しき。



(C)逸文・播磨国風土記「速鳥」に出てくる「楠」は葛城襲津彦こと大伴狭手彦であることはすでに説明しました。葛城襲津彦こと大伴狭手彦は瀬戸内海の要衝淡路島を支配することで出世の足がかりを作り、幼い天皇を退けて自ら天皇になったことを意味していると。
しかし後になって考えてみると、こうも解釈できるのではないかと思いました。
反正天皇が淡路島御井宮に坐す、なので「朝日には淡路島を蔭し」は幼い天皇に代わって政治を取ったことを表し、「大倭嶋根を蔭しき」はついに幼い天皇を退けて自ら天皇となったとも考えられます。

まずこの三つの記録を見ると、それぞれの記録に登場する巨木はそれぞれに違うことがわかります。

(A)は歴木(くぬぎ)
(B)は楝木(あふち)、栴檀のことです。
(C)は楠

実は(A)の歴木と(B)の楝木はどちらも処刑に関連がある樹木なのです。
角川ソフィア文庫「古事記」(中村啓信:訳注)P154の下段注4には、この「歴木(くぬぎ)」について、こう記しています。

「櫪」の柝字。柝字には卜占の意がこめられ、歴は指の間に木を挿んで締めつける刑であり、二人の王の反逆を暗示している。

また楝(あふち)、栴檀は広辞苑によれば獄門、さらし首の木に使われるとあって、巨木を表す葛城襲津彦こと大伴狭手彦が謀反を起こしたことを暗示していると思われます。

また指の間に木を挿んで締めつける刑は、「歴木」だけでなく別の形で記されています。それが仲哀八年春正月条、「挟杪者(かじとり)倭国の菟田の人伊賀彦」の「挟杪者(かじとり)」です。普通舵取りと書きますから、これは何か意味するところがあるのだろうと新漢語林を見てみると「挟」は挟むこと、「杪」は細い木、こずえとありました。歴木と同じことで指の間に木を挟んで締め付けるというのと同じことを表していました。つまり舵取りの伊賀彦は罪人であるとほのめかしているのです。
この伊賀彦正体は逸文・伊賀国風土記から猿田彦を指しているように思えます。
景行紀に猿が名前につく人物として水沼県主(みぬまのあがたぬし)猿大海(さるおほみ)が景行紀に登場します。
水沼氏は景行紀から襲国武媛を母として誕生しているので、水沼氏のルーツが大伴狭手彦と同じ襲国だということがわかります。水沼の沼は潟と同じ意味なので水潟も書き換えられます。これをムナカタと読めば宗像氏、ミナカタと読めば諏訪大社の建御名方神となります。どちらも大伴狭手彦の分身です。また猿大海という名前は、ずばり別名に岐神(ふなとのかみ)とされる猿田彦そのもののように思えます。
フナトとは舟門で港を意味しますが、もう一つは舟人で船頭や漁師を意味します。

また猿田彦が海人(あま)の宰(みこともち)大伴狭手彦であることを証明するために、猿田彦と天鈿女命(あめのうづめのみこと)の関係から証明してみたいと思います。
天孫降臨のおりに天鈿女(あめのうづめのみこと)は猿田彦という神を顕したという理由で、猿田彦のサルをもらって猨女君(さるめのきみ)と名を変えたと言います。猨女君とはいったいどういう人たちを言うのか、岩波書店 日本古典文学大系「日本書紀 上」の補注2ー22を読んでみると、宮廷の祭祀、特に鎮魂の儀に神楽を奉仕する女性。猿女を世襲的に貢上する女性とあります。
神代第七段本文には

又猨女君の遠祖天鈿女命、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天石窟戸の前に立たして巧みに俳優(わざをぎ)す。亦天香山の真坂樹を以て鬘(かづら)にし、蘿(ひかげ)を以て手繦にして火處(ほところ)焼き、覆槽置(うけふ)せ、顕神明之憑談(かむがかり)す。

ここから分かるのは天鈿女命(あめのうづめのみこと)は神の前で神に捧げる舞をし、時に神が憑依する巫女だということがわかります。しかしここで注目して欲しいのはそれらのことを俳優(わざをぎ)と言っているところです。
実はこの俳優(わざをぎ)をする人物が日本書紀の神代にはもう一人登場します。それは海幸彦こと火酢芹命です。彼は海神の元から帰ってきた山幸彦との戦いに負けて、このように言います。

願はくは救ひたまへ。若し我を活けたまへらば、吾が生(うみ)の児(こ)の八十連屬(やそつづき)に、汝(いましみこと)の垣邊(みかみもと)を離れずして、俳優(わざをぎ)の民たらむ」
「吾、身を汚すこと此(かく)の如し。永(ひたぶる)に汝(いまし)の俳優(わざをぎひと)たらむ」

「俳優」というキーワードで天鈿女命と海幸彦が一致しました。
そしてもう一つ重要な点は、大伴狭手彦のもう一つの分身が珍彦(うづひこ)だということです。
古代のヒメヒコ制を当てはめて考えると、ウヅヒコに対応する女性名はウヅメではないでしょうか

珍彦(うづひこ) ⇆ 鈿女(うづめ)

猿田彦 ⇆ 天鈿女命(俳優)

海幸彦(俳優) ⇆ 海神の娘豊玉姫

大伴狭手彦 ⇆ ??


神代に記される豊玉姫の記録神代第十段の内容見ても、彼女が吉備姫(吉備穴戸武姫、吉備の兄媛他)であることがわかります。子供を倭に残してきた母の苦しみが伝わりますし、なぜか十段一書第四に彦火火出見尊こと山幸彦ではなく火折尊(ほをりのみこと)が当然最後に登場し、豊玉姫との別れを悲しんで歌を詠みます。おそらくこの火折尊は火焔皇子ではないかと思われます。
ということで豊玉姫は応神紀に登場する吉備の兄媛、あるいは日本武尊の妃、吉備穴戸武媛分身だということがわかります。


以上から「挟杪者(かじとり)倭国の菟田の人伊賀彦」も猿田彦も、大伴狭手彦だということがわかっていただけたでしょうか。
さらに(A)で見落としてはならないことは、役人たちが渡った巨木に「御木の小橋」という名前がついていることです。小橋は海幸彦こと火酢芹命(火闌降命)のことです。神代第十段本文には

今より以後(ゆくさき)、吾は汝(いまし)の俳優(わざをぎ)の民たらむ。請ふ。施恩活(いけたま)へ。」とまうす。是に、其の所乞(ねがひ)の随(まにま)に遂に赦(ゆる)す。其れ火闌降命(ほのすそりのみこと)は即ち吾田君小橋等(あたのきみおばしら)が本祖(とほつおや)なり。

ということで三つの巨木の説話は天皇位を奪った大伴狭手彦を表しているようです。ただ巨木が肥前、肥後国を覆っていたをどう考えるかなのですが、まだわかりません。ただ年齢を考えても継体天皇が筑紫に降ってくる前ではなさそうです。「嘗(むかし)、未だ僵(たふ)れざる先に」倒れる前に、とあるので晩年のことなのでしょう。




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