日本書紀の謎を解く・28修正(神功皇后39年と倭王武の遣使)

今年2017年二月二十五日に「日本書紀の謎を解く・28(神功皇后39年と倭王武の遣使)」をブログ上に公開したが、先日読み直してみて真っ青になりました。自分が書いたのに今読み直すとさっぱり意味が分からなかったのです。これはいかんと書き直すことにしました。以前公開したものはアホ丸出しですけど記録として一応そのまま残しておきます。これでわかるでしょうか。もしかすると他のところにも意味不明なところがあるかもしれません。



神功皇后三十九年と四十年、四十二年の記録は魏志を巧みに利用した倭王武の三回の遣使の記録である。三十九年は西暦478年、四十年は西暦479年、四十三年は西暦502年の倭王武の遣使を指している。

A・三十九年。是年(ことし)、太歳己未。
魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将(い)て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。
訳)魏志に云う、明帝の景初三年六月、倭の女王が大夫難斗米等を遣して皇帝に謁見することを求めて朝献した。太守鄧夏を遣わして倭の使節を都に迎えた。

B・四十年。
魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。
訳)魏志に云う。正始元年に倭国の使者に詔書印綬を授け、建忠校尉梯携らの使者を倭国に遣わした。

C・四十三年。
魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊聲者掖耶約等八人を遣して上献す。
訳)魏志に云う。正始四年。倭王が再び大夫伊聲者掖耶約等八人を使者として朝献した。


まずAの「三十九年。是年、太歳己未」の記録であるが、この部分は継体三十九歳の時、手白香皇女との招請婚による最初の天皇即位があったことを記している。この本文は元資料の実年代をつかむための指標ともいうべき重要な記録である。編纂者たちが日本書紀を編纂するにあたり年表を作成したかどうかわからないが、私は日本書紀の中にこうした指標となる記事が点在することに気が付いて敏達までの年表を完成している。
また小さく書かれた分注は魏志倭人伝の記録を巧みに利用してこの年に倭王武の遣使があったことを暗に伝えようとしている。
しかし神功皇后紀の太歳己未の年(西暦479年)の記録が第一回目の遣使を指しているということになると、三回の遣使の記録と干支がひとつずつズレが生じることになる。中国の記録では倭王武の最初の遣使は戊午年(西暦478年)だからである。

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にもかかわらず、なぜ私はこの記録を倭王武の遣使の記録としたのか。こじつけのように受け止められるかもしれないが、稚拙な文章ながら説明してみたい。

岩波書店・日本古典文学大系「日本書紀上」357頁注28、29をもとに説明してみたい。
まず注28を簡略してみる。
1)「明帝」の二文字は、魏志の引用箇所にない。
2)明帝は西暦239年正月に死んでいるので、日本書紀に記される三十九年六月は次の斉王芳即位後のことである。つまり明帝は誤り。
3)景初三年は西暦239年だが、魏志では二年が239年となる。神功皇后紀の記録によれば景初三年をは己未年ということになるが、魏志によれば実年代は景初二年が己午年(西暦239年)ということである。
4)239年の出来事とすると戊午となり己未ではなくなる。己未の出来事なら景初三年でよいことになる。

私は、編纂者たちは魏志倭人伝の記録と神功皇后紀、倭王武の遣使の記録、そして継体三十九歳太歳年、この四つをすり合わせようとして、編纂者たちは結果的に景初二年を三年に書き換えたと考える。
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まず編纂者たちが一番中心において考えたのは己未年に継体三十九歳が即位したということである。これは物語の正確な年代を伝えるための指標となる記事なので動かせない。しかし己未年は倭王武の二度目の遣使の年となる。書紀の構成上何としても「三十九年、太歳己未」に第一回目の遣使の記録をもってきたかった編纂者たちは、倭王武第一回目の遣使の記録と対応させようとした景初二年の記録を単純に景初三年に書き換えることでつじつまを合わせようとしたのではないかと考える。一年繰り下げたから、こちらも一年繰り下げるといった単純な考えである。己未年に注目するなら景初二年は継体即位の年と同じ己未なのだからそのままでよいにも関わらず。
しかし一方で本当に編纂者の単純な錯覚、ミスなのだろうかという思いも浮かんでくる。景初二年を三年に一年繰り上げたことで中国への遣使の記録は一年差し引いて考え、即位の前年にも最初の遣使があったことを我々に伝えようとしたのか、である。

ともかく神功皇后三十九年の「魏志に云はく」の記録は一年差し引いて日本書紀の景初三年西暦239年は西暦238年となり、それに干支四運プラスして478年の倭王武の最初の遣使の記録となる。続けて四十年は479年二度目の遣使の記録となる。
では四十三年の記録はどうなるかというと、これも一年差し引いて考え四十二年とする。この四十二という数字を年表に探すと安閑天皇四十二歳の時の記録となる。この年が西暦502年となり倭王武の最後に記録された遣使の年となる。

さて倭王武の三回の遣使だが、まず継体天皇が即位前年と即位の年に中国に遣使を差し向けたというのは、やはり天皇の位をめぐって強力なライバルが登場し国内の首長豪族に権威を示すためだったのだろうと私は考えている。そして最後の502年の遣使は新羅が任那を脅かし始め朝鮮半島での日本の立場が危うくなったためだろうと考えている。


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