テーマ:日本書紀の謎を解く

日本書紀の謎々を解く241・磯城津彦の磯城宮は石川が大和川に合流する場所の証明

目の調子が悪いのでカードだけにします。最近右目の白くぼやけたところが大きくなってきています。 石が走って逃げるなんて有り得ないわけですから、この石は大伴磐のことを意味すると思います。では応神天皇が大伴狭手彦なのかは、まだはっきりしません。ただヒメヒコ制から狭手彦(猿田彦)と吉備穴戸武媛(天鈿命)が対になっているので、吉備穴戸武媛が…
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日本書紀の謎々を解く240・秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫

古事記にだけ記される「秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫」。この記録が何を伝えようとしているのか随分と悩まされたが、そのうち大伴磐と神前皇女との関係がわかってきて、春山霞壮夫は大伴磐のことを言っているのだろうと少しだけ見えてきていた。それが万葉集に目を通していて次のような歌があることに気がついた。水の江の浦の嶋子と住吉が歌の中にあるので春山之…
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日本書紀の謎々を解く239・吉備武彦と吉備穴戸武媛との関係

ヒメヒコ制を考えるために、もう一度吉備武彦と吉備穴戸武媛との関係を見直してみた。そうしてみると新たに見えてきたことがある。吉備穴戸武媛にとって吉備武彦は父だが、古事記では兄となっている。これはいったいどういうことなのか。やはり一番最初の頃のブログの中で述べたように吉備穴戸武媛は父がわからない得体のしれない女なのか。私は藤原不比等の娘宮子…
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日本書紀の謎々を解く238・角臣と物部麁鹿火、大伴狭手彦は同一人物

『逸文・山城国風土記』の賀茂社に登場する玉依日売と物部麁鹿火の娘影媛は同一人物と考えている。なぜなら玉依日売と結婚する火雷命(丹塗り矢)はその名前にある雷から大伴磐。一方物部麁鹿火の娘影媛の夫である平群真鳥臣の子、鮪(しび)も大伴磐だと考えられるからである。私は平群真鳥臣と子の鮪(シビ)は同一人物と考えていてシビは、かつて王の位にあった…
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日本書紀の謎々を解く237・また修正。物忘れとの戦い

また、修正がありそうです。大切なことをすっかり忘れていました。物忘れがかなり進んできています。それと改めて風土記等の資料の解釈の難しさを痛感しています。編纂者たちは日本書紀のもととなった旧資料を後世に伝えようという強い思いがあるのですが、一方で簡単に答えが出ても困るのです。私たちを欺くために偽りの記録を紛れ込ませていることも考えなければ…
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日本書紀の謎々を解く・遠智娘

天智天皇の妃に遠智娘(をちのいらつめ)という女性がいる。孝徳大化五年三月条で病に罹って亡くなる。越智(おち)は大山祇神を瀬戸内海の大三島に勧進した小千命(おちのみこと)に関連する名前で、河野水軍、村上水軍が発達した芸予諸島に広く分布する名前である。この辺りで育った私なら直感で彼女が大山祇神の娘だとすぐにわかるのである。ということは遠智娘…
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日本書紀の謎々を解く236・金刺舎人麻呂

『続日本紀』孝元天皇、天平宝字元年八月十三日条にかなり面白い記録がある。蚕が生んだ卵とは一体何なんだろう。不思議な文章である。これは眉輪王が生まれた時の記録、あるいは天皇となった記録かである。金刺は欽明天皇の都があった磯城嶋金刺宮の金刺である。この宮の舎人だから大伴磐を指していると考える。蚕の卵は眉輪王のことだろう。 しかし蚕の卵が自…
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日本書紀の謎々を解く235・吉備穴戸武媛の2人の皇子

吉備穴戸武媛の2人の皇子についてもう一度考え直してみた。これまで眉輪王は日本書紀と古事記の日本武尊の妃皇子女の記録を重要視して、いつのまにか眉輪王を日本武尊の子供だと考えていた。しかしよく考えてみたら眉輪王は大草香皇子の子供だった。どこで勘違いしたのかというと、日本書紀では吉備穴戸武媛の子供は武卵王と十城別王、古事記では建貝児王のみ。そ…
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日本書紀の謎々を解く234・231の訂正

ブログ231で公開した年表の訂正です。 大草香皇子(大友皇子・用明天皇)は天皇に即位したのかわからない。この表では三年と数字を出したが、用明天皇は日本書紀では二年、古事記では三年となる。また日本書紀も古事記も一年不明があるので大伴磐(大海人皇子)との戦いに一年費やしたのではないかと考えている。
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日本書紀の謎々を解く233・葛城襲津彦の娘磐之媛の正体

磐も石も同じだろうと考えて、石姫と磐之媛は同一人物と仮定し、その正体を探ってみた。読みにくいのは、恐らく私が集団ストーカー証拠となる写真を公開するのを恐れて、なんらかの妨害をしていると思われる。写真や図の上でクリックしてもらえれば鮮明な図が出てくると思う。 この石姫が生まれたのは雄略天皇三年四月条より西暦506年ごろと思われる。 …
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日本書紀の謎々を解く232・分身を作る方法

分身を作る方法として、連想に連想を重ねていく方法以外に先祖子孫を作っていく方法がある。 つちなみに、このワコという名前の人物が神功皇后のところに出てくる。神功皇后摂政四十六年三月条。爾波移(にはや)とともに百済王から賄賂を渡される過古(わこ)である。爾波移は大伴磐、過古は大伴狭手彦可能性がある。また百済から賄賂を渡されて非難された大伴…
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日本書紀の謎々を解く231・『住吉大社神代記』(4)

前回『住吉大社神代記』(3)で敏達天皇(渟中倉太珠敷天皇)の正体は大伴磐だと述べた。では敏達天皇の皇后は誰か。息長真手王の娘広姫である。日鷹吉士は『逸文・日向国風土記』高日村と『播磨国風土記』揖保郡広山の二つの記録から、阿知使主の子都加(掬)使主と石川王と日鷹吉士は同一人物と考えられ、それは大伴磐の分身である。また日鷹吉士は天日槍の子孫…
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日本書紀のなぞなぞを解く230・『住吉大社神代記』(3)

『住吉大社神代記』からわかってきたことを何回かに分けて書いてが、もう一つわかったことがあるので書いてみたい。もうお気づきの方もいるだろう。敏達天皇はその和風諡号「渟中倉太瓊敷天皇」から大伴磐だとわかるのである。「渟中倉」は当時住吉大社があった場所。現在住吉大社の場所ではないと考える。では「渟中倉」は何か。「渟」は大彦の息子武渟名川別(た…
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日本書紀の謎々を解く227・住吉大社神代記(2)の続き

昨日、住吉大社神代記(2)をアップロードしてから、もう一度大和川と石川が合流するあたりの地図を見てみた。大和川の両側が生駒山地と金剛山地に挟まれ、しかもその間で大きく大和川は蛇行している。しかし、その手前で攻撃をする場所が石川と合流するあたりになるのだろう。これは外国からの敵が奈良盆地に侵入するのを防ぐための要害の地だと気がついた。津守…
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日本書紀の謎々を解く226・住吉大社神代記(2)

『住吉大社神代記』に目を通してもう一つ確信したことがある。それは住吉大社のある住之江(墨の江)位置は、大和川が奈良盆地から生駒山地と金剛山地の狭間を流れ出たところで南から合流する石川周辺にあったということである。つまり現在住吉大社がある大阪湾沿いあったのではなく、奈良盆地の入り口となる川沿に津(港)があったということだ。 私は以前から…
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日本書紀の謎々を解く225・住吉大社神代記(1)

『住吉大社神代記』は面倒だし、神社の由緒書きを見るのも飽きたし無視するつもりだった。私、学者じゃないし。しかし、図書館で『古代氏文集』(山川出版社)借りちゃったもんだから、しかたなく目を通さざるをえなくなった。目を通してびっくり。久々にすごい「ヒント集(解文)」だった。『秦氏本系帳』もだが。目を通しながら「ニヤ〜ッ」としっぱなしだ。この…
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日本書紀の謎々を解く224・抹消

前回「日本書紀の謎々を解く223」で公開した下図は、少し考えすぎだったようだ。これだと、また父親か息子かわからなくなる。とりあえずこれは抹消です。 頭の中が混乱して、混乱して大変です。記憶もあちこち飛ぶようになってます。
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日本書紀の謎々を解く223・的臣の正体は

弓の名手、的臣(いくはのおみ)の正体は誰か。整理してみた。大伴磐、依網阿弭古、捕鳥部万、虚空津日高(山幸彦)、水の江の浦の島子、中臣烏賊津使主、山部連の先祖、伊予来目部小楯、高橋邑の活日などということになった。 「弭」という文字は弓と耳に分解できて、そこから弓の名手と薩摩の首長「弥弥」(魏志倭人伝より)を導き出してみた。はたし…
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日本書紀の謎々を解く222・角宿禰

ついに隼人の謀反が見えてきたと思ったら、まだまだだった。とりあえず今私が考えているところを公開していく。幼い王から王位を奪った辰斯王を殺した角宿禰は誰なのか。私は事代主神の事代は琴代ではないかと思っている。琴代とは琴の材料ということである。 皇極元年二月条に、泉蓋蘇文(伊梨柯須弥)が大王を殺して弟王子の子を王としたとあるので、これが応…
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日本書紀の謎々を解く221・泉蓋蘇文

困ったものである。最近物忘れがひどくなっている。以前考えていたことなどをきれいさっぱり忘れていたのである。情報カードだけはどんどん増えていくが、うまく繋がらない。バラバラだ。今朝「泉蓋蘇文」に関するメモに気がついた。ということは前日述べた隼人の謀反に関する人物が違ってくるかもしれない。最初に考えたように父の方かもしれない。泉蓋蘇文に関す…
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日本書紀の謎々を解く220・酢香手姫皇女

用明天皇即位前紀、酢香手姫皇女は三十七年間伊勢神宮の斎宮を勤め上げ自ら退いて薨去したという。伊勢斎宮を退く時の記録が炊屋姫天皇(推古天皇)の紀に記されるとあるが、探しても見当たらない。そこで持統天皇称制前紀を見ると 十一月、伊勢神祠に奉れる皇女大来、還りて京師に至る。 とある。私は酢香手姫皇女は大来皇女のことではないかと思う。という…
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日本書紀の謎々を解く219・隼人の謀反後半について

前回「日本書紀の謎々を解く218・万葉集にみる隼人の乱」で、最後に次の情報カードを公開した。これだと殺された幼い天皇が廃帝となった淳仁天皇だと勘違いされることに気がついたので、私の考えを述べたい。私はこの淳仁天皇は宣化天皇庶妃大河内稚子媛(木花開耶姫、吉備兄媛、吉備穴戸武姫他)が生んだ火焔皇子(ほのほのみこ)だろうと考えている。そして火…
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日本書紀の謎を解く197・近江毛野臣

継体天皇二十一年に登場する近江毛野臣と天智天皇二年三月に登場する上毛野君稚子、天武天皇元年七月に登場する近江の将壱岐史韓国は同一人物と見ている。内容はまだうまく整理ができていないのだが。
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日本書紀の謎を解く196・雄略と武烈と反正、欽明は同一人物である

雄略天皇と武烈天皇と反正天皇、そして欽明天皇は同一人物である。 ただし雄略天皇の有徳天皇と武烈天皇の為人の前半部は安閑天皇である。雄略天皇は安閑天皇(有徳天皇)と木之花開耶媛が産んだ火焔皇子(大悪天皇)でできている。 この火焔皇子について、今まで訂正を先延ばしにして、曖昧なままにしてきたので今回はっきりとしておきたい。今まで記紀スト…
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日本書紀に謎を解く・倭人伝

昨日のニュース。桓武天皇の父、光仁天皇が竹に入れた酒を飲んで長生きをして、六十歳を過ぎて遂に天皇となったという故事にちなんだ行事が縁(ゆかり)の寺であったそうだ。 それを聴きながら「ああ、やっぱり光仁天皇は継体天皇で、桓武天皇は安閑天皇、自殺した弟の早良親王は厚皇子だったんだな。」と思った。竹も酒も隼人を表すからだ。継体天皇は南九州の…
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日本書紀の謎を解く194・難波の堀江

父と子とされる蘇我稲目と蘇我馬子は同一人物である。それは欽明十三年十月の記録と敏達十三年九月の記録が酷似しているからである。 以上によれば欽明紀と敏達紀と扶桑略記と、仏法が日本へ伝えられた記録は三つあることになる。私はこれらの記録を全て同じ時の記録と考え、この時期を私は継体天皇の時の出来事と考えている。欽明紀も敏達…
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日本書紀の謎を解く193・巴

肥前国風土記にある大伴狭手彦と弟日姫子(万葉集では佐用姫)の物語同じ内容を記す記事がもう一つ欽明紀にある。欽明六年十一月条である。膳臣巴堤便は大伴狭手彦ももう一つの名前である。Wikipediaによれば穂積押山の子供に穂積磐弓、穂積巴堤がいる。大伴金村の子供は宣化紀から大伴磐、大伴狭手彦がいることがわかる。穂積押山と大伴金村が任那四県割…
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日本書紀の謎を解く192・四道将軍派遣

崇神十年七月条に記される四道将軍派遣の詔が出されたのは西暦513年の出来事である。出発はその年の十月となる。安閑天皇五十三歳の年。父継体天皇が崩御し称制を開始してから十年目のことである。 この四道将軍の記録に関連すると考えられる記事が景行五十三年八月条の記録である。景行天皇が子の日本武尊を偲びたいと東国巡幸の詔を出し、この月に東国に向…
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日本書紀の謎を解く191・馬毛の訂正

以前青い毛の馬を青鹿毛と理解して人物を分析したが、そのあともう一度馬毛をインターネット(Umas.club)で調べると、青毛は全身黒の毛の馬のことだった。青鹿毛は全身は黒だが目や鼻、下腹部など柔らかい部分が褐色になっている馬をいうのだそうだ。大きな勘違いだった。 しかし、このことがわかって、以前からあった疑問が解けた。 大蔵省の役人…
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日本書紀の謎を解く190・もう一人のヲマロ

肥前国風土記にはもうひとりのヲマロが登場する。 石鬱比袁麻呂である。 摩利支天に例えられたヲマロという人物の正体を考えてみた。 ここでも、またしても大伴金村(父)と大伴磐(子)どちらかわからない。 金の鵄を単純に金村としたのがいけないのか。 出雲国風土記で枳佐加比売が選んだ金の弓箭を金村としたのがいけなかったのか。 …
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