日本書紀の謎々を解く362・結局同一人物か。

 前回、大伴臣糠手と坂本臣糠手は同一人物だと述べた。
 大伴臣糠手は糠手子とも書く場合がある。実は糠手、あるいは糠手子と名乗る人物はもう一人いる。中臣糠手子である。『延喜本系帳』によれば、壬申の乱の時近江朝側について浅井の田根で処刑された中臣金の父親だそうである。私流の考えで行けば当然同一人物ということになる。
中臣といえば中臣烏賊津使主(いかつおみ)が先祖となるだろう。イカツオミといえば以前のブログに述べたとおり伊賀都臣(いかつおみ)、雷大臣(いかつおみ)である。伊賀といえば猿田彦。また烏賊の口はカラストンビというから、ここから日本書紀の編纂者たちは頭八咫烏と金の鵄をイメージした。というか、ここから中臣烏賊津使主を連想して欲しかったのだろう。
 猿田彦は瓊瓊杵尊を、頭八咫烏と金の鵄は神武天皇を道案内した。だから大伴氏の遠祖道臣となる。つまり中臣氏も大伴氏も同じだという事だ。坂本臣と中臣氏と大伴氏は同一人物だという事だ。 中臣糠手子と大伴臣糠手、坂本臣糠手は同一人物である。
 さらにこの人物が大伴狭手彦、蘇我馬子とすれば崇峻即位前紀秋七月条に馬子側についた武将たちは全て同一人物の可能性が出てくる。
 巨勢臣比良夫と阿部臣人は、巨勢人と阿部比羅夫の名前と姓が交換されている。巨勢人は、天智十年正月条に登場するが、これは安閑天皇の妃の父、許勢男人から作られたものだろう。
 葛城烏那羅は葛城の烏だから頭八咫烏と賀茂建角身命が導き出せる。角は角宿禰、身は身狭村主青である。那羅は朝鮮語で国を意味する
日本書紀の景行天皇と豊後国風土記に、土蜘蛛の名前として「打猨・八田・国摩侶」というのが登場するが、猨は猿田彦、八田は頭八咫烏、とすれば国摩侶も同一人物と考えていい。
 膳臣賀柁夫(かたぶ)は伊勢阿部堅経(かたぶ)という人物が皇極紀に登場する。これもまた阿部である。
 大伴齧(おほとものくひ)の齧(くひ)を咋と書き直せば大山咋命が連想される。大山咋命は『秦氏本系帳』を読めば火雷命と同一人物である。雷は雷大臣、とすれば中臣烏賊津使主、頭八咫烏である。さらに猿田彦が連想される。大山咋命を御祭神とする滋賀県の日吉大社の神使は猿である。
 猿を十二支の申に置き換えると、この申は稲光の象形である。鹿と猿の胎児はサゴと言われる。サは穀霊を意味するところから、猿(申)は大地に降りてくる穀霊を意味する。
 また咋がつく名前には孝徳紀に登場する穂積臣咋という人物もいる。同一人物と見ていいだろう。穂積といえば穂積押山である。
 今まだ自信を持っていう段階にはないが馬子側の武将として登場する人物全てが、どうも蘇我馬子の分身臭いのである。壬申の乱しかり。

 また名前に「糠手(あらて)」がつく人物がいる、それは舒明天皇の母、糠手姫皇女(又の名は田村皇女)である。古事記では宝王(たからのみこ)と記される。
前回のブログで述べたが舒明天皇の皇后も宝皇女なのである。舒明天皇は母も宝、妻も宝という名前なのである。

 実は私は、これらの「糠手(あらて)」がつく人物をノートや情報カード、パソコンで打ち込むときに「ヌカデ」と口の中でいうのである。ある日ふと思ったのが、日本書紀の編纂者たちはもしかすると「ムカデ」と言いたかった、いや、連想して欲しかったのではないかという事である。
「ムカデ」といえば阿曇連百足(ももたり)である。日本書紀には出てこないが『播磨国風土記』『肥前国風土記』には出てくる。
『播磨国風土記』揖保郡、浦上の里の内容と推古三十二年十月条の内容が同じなので、ここから蘇我馬子と葛城襲津彦、阿曇連百足が同一人物だとわかるのである。蘇我馬子は大海人皇子、葛城襲津彦は征新羅将軍なので大伴狭手彦と考えていいだろう。
だとしたら糠手姫皇女実はムカデ姫ということになる。

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 上の図から直感的に嶋皇祖母命と吉備嶋皇祖母命、皇祖母尊が同一人物とすれば、ムカデ姫は吉備姫(吉備黒比売、吉備兄媛、吉備穴戸武媛、吉備稚子媛、そして木花開耶姫、狭穂媛)ということになる。
 ちなみに滋賀県の伊吹山、日本武尊が神退治をした山だが、この山には大きなムカデが七巻半していると伝えられている。このムカデこそ阿曇連百足ではないかと思う。そして伊吹山は神前皇女を意味するのではないかと思う。
 ムカデは戦いの神として戦国時代、武将の旗指物に描かれていたそうだ。ムカデは前進しかできないからと説明されているが、私の考えるところ、ムカデはおそらく阿曇連百足のことで、別名大海人皇子、蘇我馬子、大伴狭手彦である。

 と、ここまで説明してきたが、実はもう一つ伝えたいことは、やはり同一人物同士で戦いあっているということである。
前回坂本臣と大伴臣は同一で大伴狭手、蘇我馬子だと述べたが、実は坂本臣の祖根使主が稲城で戦ったこと、戦いに敗れた後子供や一族郎党が二つに分けられ賎民とされたたというところが、まったく物部弓削守屋に瓜二つなのである。これでは蘇我馬子も物部弓削守屋も同一人物ということになってしまう。蘇我馬子も物部弓削守屋も同一人物同士、壬申の乱も大海人皇子と伊賀皇子は同一人物同士なのである。
 また大伴金村の家が住吉にあったとすれば住吉仲皇子で、猿田彦で、大伴金村と息子の大伴狭手彦は同一人物となる。父と子は同一人物というルールを当てはめれば、大伴金村、大伴磐、大伴狭手彦は同一人物となるのである。

ここ数年隼人の乱を調べてきたが、明らかになってくるのは大伴狭手彦ばかりで、大伴磐らしき人物の名前は出てくるものの、まったく存在感がない。時々、磐は磐之媛のことではないかと考えることがある。
もし、日本書紀の原資料がある一族の(おそらく藤原氏)の始祖伝だとすれば、登場するにはほぼ始祖を中心として書かれたものだろう。いやしかし始祖伝だとしたら、始祖の醜聞までは記さないだろう、終始美化した内容となるに違いない。
 ここまで醜聞を記してあったとすれば、燃え盛る蘇我蝦夷の館から救出した国記か。
ともかくも、それを中国の史書に引けをとらないような壮大な物語に仕上げようとすれば、同一人物同士を戦わせるという不自然な物語ならざるをえなかったのではないだろうか。
 また以前から述べているように、天皇家にとって不都合な真実を隠す為の工作。一つは母系制社会が色濃く残った6世紀前半ぐらいまでは許された近親結婚、とくに父と娘の結婚。そして第二は天皇家の父系出自が継体天皇、安閑天皇が作り上げた王朝を中断させた謀反人であることを隠さなければならなかったこと。
 また本来母系制による人間関係を、先進国中国に倣って父系で書き直さねばならなくなったこと。時の為政者が考えたのはそういうところだろうか。
 しかし、編纂を任された担当者たちは、為政者たちの思いとは裏腹になんとしてもこの国の始まりの真実を後世に伝えるべきだと考えた。そのために壮大な謎々を作り上げた。日本書紀の周囲に『風土記』や『万葉集』『伊勢物語』『住吉大社神代記』『秦氏本系帳』『竹取物語』『続日本紀』などの解文(ヒント集)を並べ置いて、謎を解きながら徐々に真実が炙り出されるという仕組みだ。

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