日本書紀の謎々を解く345・伊勢王と伊勢津彦は別人

今逸文『伊勢国風土記』風土記を読み直していて、とんでもないことに気がついた。
伊勢津彦と伊勢王は別人だった。きちんと最後まで読んでいなかった。いや、この記録を読んだときは境部がそれほど重要とは思わなかったのである。

伊勢津彦を破って信濃国諏訪に追いやった天日別命は、そのあと伊勢国を拝領した。そして天皇の命令で山川を堺ひ、地邑を定めたと記される。
ということは天日別命は境部である。日本書紀中国境を定めたとされる人物は伊勢王、そして武内宿禰だというのは、少し前のブログに書いたが、彼らは伊勢津彦ではなかったのである。

伊勢津彦は大伴狭手彦である。
それは逸文『筑前国風土記』宗像郡の記録から導き出せる。

宗像大神、天より降りまして、埼門山に居ましし時、青瓊の玉を以ちて奥津宮表に置き、八尺瓊の紫玉を以ちて中津宮表に置き、八咫の鏡を以ちて辺津宮の表に置き、此の三つの表を以ちて神体の形と成して、三つの宮に納め置きたまひて、即て隠りましき。因りて身形(みなかた)の郡と曰ひき。後の人、改めて宗像と曰ふ。その大海命の子孫は、宗像朝臣等、是なり。云々。

大海命は景行紀の水沼県主猿大海のことである。。水沼氏は景行天皇の后妃皇子女の記録から、襲武媛の生んだ国乳別皇子が祖とあるので、水沼氏出自は日向襲国だとわかる。日向隼人なのである。
風土記文中の身形(ミナカタ)から建御名方神が導き出せる。また水沼の沼を潟に変えたらミナカタとなる。
また宗像氏は吾田片隅命が祖であるから吾田隼人となる。これまた出自は隼人なのである。片隅はおそらく大隅なのではないかと思われるので大隅隼人導き出せる。継体天皇、安閑天皇の頃はおそらく日向も薩摩も大隅も別れてなく一つの国だったのだろう。神武天皇の筑紫の妃の名前が「日向国の吾田邑の吾平津媛」で日向から大隅から薩摩まで網羅した名前である。

建御名方神は雷神に敗れて科野国の州羽海に逃げる。伊勢津彦も天日別命に敗れて信濃国に逃げていく。だから建御名方神と伊勢津彦は同一人物である。また『伊勢国風土記』みると伊勢津彦は天火明命と同一人物である。それを証明できるのが『播磨国風土記』飾磨郡の「昔、大汝命子、火明命、心行甚強し」以下の文を読めば火明命は風の神だとわかる。伊勢津彦も神風の伊勢とあって、これも風神である。
ここから『肥前国風土記』基肆郡に記される「筑前国宗像郡の人、珂是古(かぜこ)」は風子だとわかる。
また宗像徳善が大伴狭手彦だというのは、かなり前のブログに書いたが、

天武二年二月条
胸形徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)

崇峻三年是歳条
是歳、度(いへで)せる尼は、大伴狭手彦連が女、善徳

直感的にではあるが、善徳は大伴狭手彦を表していると思うのである。

伊勢津彦が大伴狭手彦なら、天日別命は大伴磐で、大伴磐が武内宿禰で、伊勢王、境部の祖大彦としていいのだろう。大伴磐が武内宿禰なら甘美内宿禰は大伴狭手彦ということになる。

大伴磐と大伴狭手彦の分離ヶ所が一つわかった。
このような不注意で読み過ごした場所はまだまだあるかもしれない。根気よくやるしかない。
実はこの二人は同一人物だろうということにしようかと思っていたところだったのである。




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