日本書紀の謎々を解く342・大彦命と武内宿禰と伊勢王と・・・
日本書紀が約一元六十年ほどの資料をもとに編纂されたとしたら、似たような業績を持つ人間はほぼ同一人物と見ていいだろう。だから大彦命と武内宿禰と伊勢王は同一人物と考えていいのではないかと思う。崇神紀の四道将軍の一人、大彦命は『新撰姓氏録』によれば坂合部の祖とされる。
坂合部
大彦命之後也。允恭天皇御世造立国境之標因賜姓坂合部連。
わずか一元の間の記録なのだから、そのまま崇神紀に登場する大彦命を坂合部(境部)としていいだろう。ということは四道将軍が各地に派遣された理由は「諸国の境堺を現分(さか)ふ」こと、つまり行政区画を定めることが目的だったのである。
この内容と一致する記録が、一つには景行二十五年七月条、二十七年二月条の武内宿禰。二つには天武十二年十二月条、天武十三年十月条、天武十四年十月条の伊勢王の記録だろうと思う。伊勢王は『伊勢国風土記』登場する伊勢津彦と同一人物と見ていいだろう。
この武内宿禰が伊勢王と同一人物だというのは逸文『伊勢国風土記』多気郡によって証明できるのではないかと思う。
難波の長柄の豊碕の宮に御宇す天皇の丙午、竹連・磯直二氏、此の郡を建つ。
孝徳天皇の御世の丙午の年に、竹連と磯直が多気郡を建てたとある。私は孝徳天皇を重要とは考えず、丙午年を重要な年だと考えた。この年は安閑天皇が崩御した翌年(西暦526)にあたり、隼人の謀反が始まる年だからである。その『伊勢国風土記』の内容が示す意味については正直まだわからない。天照大御神がこの伊勢に祀られる経緯と関係があるのかもわからない。
竹連(たけのむらじ)は武内宿禰と考えた。磯は海から出ている磐のことなので大伴磐と考えることもできる。だとしたら武内宿禰は大伴狭手彦となる。ただいまだに大伴磐と大伴狭手彦を分離することができてないし、二人は同一人物かもしれないので、今はまだはっきりと胸を張って答えることができない。しかし竹連は武内宿禰を指しているということは確実で、伊勢津彦、伊勢王と同一人物と考えていいと思う。この伊勢王の記録を読めば、まさに坂合部の仕事そのものと考えていいだろう。
天武十二年十二月条
諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、併せて判官・録史・工匠者等を遣して、天下に巡行(あり)きて、諸国の境堺(さかひ)を現分(さか)ふ。然るに是年(ことし)現分(さか)ふに堪へず。
天武十三年十月条
伊勢王を等を遣して、諸国の堺を定めしむ。
天武十四年十月条
伊勢王等、亦東国に向(まか)る。
この間、三年。武内宿禰が東国に遣わされたのも景行二十五年から二十七年で同じく三年間である。
なお天武十二年十二月条で伊勢王と共に遣わされた羽田公八国・多臣品治・中臣連大嶋は伊勢王と同一人物だろうと思っている。
また伊勢王と武内宿禰が同一人物だという証明は
伊勢津彦のまたの名前天櫛玉命だというのは逸文・『伊勢国風土記』でわかる。これは饒速日命の名前の一部で、そこから天火明命でもある。『播磨国風土記』の記録から天火明命が風の神だというのがわかるし、伊勢津彦も風土記の記録を読めば風の神だとわかる。おそらく風の神級長津彦(しなつひこ)という名前は、伊勢津彦と、これも同一人物である建御名方神が信濃国諏訪に逃げたことからついたのだろう。
火明命は尾張連の祖である。そこで『尾張国風土記』の宇夫須那社見ると、廬入姫がこの地で誕生したとある。廬入媛の「廬入」は、宣化天皇の檜隈廬入野宮であるからこの姫は宣化天皇の娘で、火明命は宣化天皇(檜隈高田皇子)だったことがここからわかる。
また「廬」という漢字に注目すれば、雄略三年夏四月条、楮幡皇女と密通して妊娠させた廬城部武彦がいる。雄略天皇が楮幡皇女のお腹を裂いてみると石が出てきたとあるので、楮幡皇女と廬城部武彦の間に生まれたのは石である。宣化天皇の皇女にも欽明天皇の皇后となった石姫がいる。「石」と「廬」を合印として、宣化天皇と廬城部武彦は同一人物だとわかる。
そして火明命、伊勢王、伊勢津彦、建御名方神も同一人物である。
また宣化天皇の名前、檜隈高田皇子の「檜隈」に注目すれば檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)という人物が出てくる。博徳(はかとこ)と同じ読み方をする人物といえば、壱岐連博徳。
壱岐連といえば、応神九年夏四月条に壱岐連真根子が武内宿禰に瓜二つだったので武内宿禰の身代わりになって死んだとある。内容が不自然なので、武内宿禰と壱岐連真根子が同一人物だということを暗示している。
となれば武内宿禰の正体は元に戻って伊勢王こと伊勢津彦だということになる。
また淳仁天皇 天平宝字七年八月条の雲梯連(うなでにむらじ)伯徳(はかとこ)広道も博徳(はかとこ)と名前の読み方が同じ人物である。雲梯(うなで)は豊国直菟名手(うなて)につながる。豊国といえば日向国造の祖豊国別皇子がいる。
日向といえば孝徳大化五年三月条の蘇我臣日向、字は身刺。『藤氏家伝』では武蔵と記される。私はこの人物を大伴狭手彦、そして蘇我馬子と前のブログで述べたばかりである。蘇我馬子は推古天皇二十年正月の宴で
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば日向の駒 太刀ならば呉の真刀(まさひ)
諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
と歌った。この歌から蘇我馬子と日向に縁があることがわかるのである。駒は馬の子だから馬子のことを言っているのである。
また日向といえば上毛野君の祖倭日向武日向彦八綱田がいる。上毛野君には竹葉瀬という人物もいる。おそらく高橋なのだろうが、ここでわざわざ竹葉瀬と表しているのは、この人物を竹の葉で表したい何かがあると考えるべきだろう。竹の葉は笹である。これは酒古くはササといったので、大三輪の掌酒(さかひと)高橋邑の活日(いくひ)に結びつけたいのと、ササは笹であるから笹部(ささべ)。インターネットの『日本姓氏語源辞典』によれば笹部異形が雀部(ささべ・さざきべ)なのだそうである。つまり笹部と雀部は同じなのである。雀は蘇我馬子が敏達天皇の葬儀で誄(しのびこと)を述べる時に、その姿を見た物部弓削守屋から「雀のようだな」とからかわれることから、雀は蘇我馬子を意味していることがわかるのである。
また雀といえば南の方向を表す朱雀がある。朱雀は天武天皇最後の年朱鳥(あかみとり)とも同じ意味である。また南は赤を表し、十二支では午(馬)であり、五行では火である。こうしたことも利用して登場人物が作られたと考えるのである。
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