日本書紀の謎々を解く238・角臣と物部麁鹿火、大伴狭手彦は同一人物

『逸文・山城国風土記』の賀茂社に登場する玉依日売と物部麁鹿火の娘影媛は同一人物と考えている。
なぜなら玉依日売と結婚する火雷命(丹塗り矢)はその名前にある雷から大伴磐。一方物部麁鹿火の娘影媛の夫である平群真鳥臣の子、鮪(しび)も大伴磐だと考えられるからである。私は平群真鳥臣と子の鮪(シビ)は同一人物と考えていてシビは、かつて王の位にあったものという意味がある。鳥は天鳥船、鳥之石楠船からわかるように大伴磐を表すキーワードの一つである。
夫を同一人物とするこの玉依日売と影媛を同一人物とするなら、父親の賀茂建角身命と物部麁鹿火は同一人物ということになる。それを証明しているのが雄略九年五月条に登場する小鹿火こと角臣である。角臣(小鹿火)は賀茂建角身命の「角」と麁鹿火の「鹿火」の両方を名前の中に持っている。小鹿火は紀大磐宿禰の横暴さに嫌気がさして角国に引きこもる。それで小鹿火は角臣と呼ばれるようになった。
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では物部麁鹿火の正体は誰かと言うと大伴狭手彦ということになった。
それは継体二十一年八月筑紫国造磐井の謀反で物部麁鹿火が出陣する時に天皇に言った言葉が照明している。

在昔(むかし)、道臣より爰(ここ)に室屋に及(いた)るまでに帝を助(まも)りて罰(う)つ」

道臣よりここ(大伴)室屋に至るまで天皇を助けて戦ってきたと、何故か物部麁鹿火が大伴氏の家の歴史を述べる不思議な場面である。さらに重要なのは「ここ室屋に至るまで」と「ここ」と言っているのだから、まさに物部麁鹿火は大伴室屋だとその正体を明かしているようなものである。



前々回だったかこの大伴氏に関する三代実録貞観三年十一月条の記録を紹介した。
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ここから大伴室屋は大伴狭手彦と導き出せる。
また大伴磐と大伴金村も同一人物の可能性があると以前述べたと思うが、整理すると

大伴狭手彦・・・・大伴日臣(道臣)、大伴武日、大伴室屋、物部麁鹿火
大伴磐・・・・・・大伴金村

ということは新羅の役(えだち)で将軍として戦ったのは大伴狭手彦こと将軍物部麁鹿火、大伴磐こと副将軍大伴金村だったということになる。
この戦いは継体天皇二十一年から二十二年にわたる筑紫磐井の謀反の時の記録と教科書で教えられたが、二十一年、二十二年という紀年の数字が合うところとしては継体天皇が亡くなった翌年、翌々年の新羅の役(えだち)しか考えられない。安閑天皇崩御後に起こった隼人(磐)の謀反から考えると彼ら二人の年齢はまだ三十前後の頃のことだと思われる。

さて「角」といえば、私の頭の中で思い浮かぶのが都怒我阿羅斯等である。
かなり以前に垂仁二年、三年に登場する蘇那曷叱智と都怒我阿羅斯等と天日槍の三人は同一人物だと述べたが、今回改めて見直してみると、穂積押山と大伴狭手彦と大伴磐の三人を表しているように読めるのである。
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さて物部麁鹿火(大伴狭手彦)と大伴金村(大伴磐)、そして穂積押山とくれば任那四県を百済に割譲した時の主要人物ということになる。
さらに聖武天皇の天平二十年正月に角朝臣道守という人物が登場する。
都怒我阿羅斯等が意冨加羅国の王子とあるが加羅国は『逸文・伊賀国風土記』から伊賀国だとわかる。伊賀津彦は猿田彦である。猿田彦は衢神(ちまたのかみ)、あるいは道祖神ともされ、道の神だから「都怒我阿羅斯等(角のある人)」が道守であっているわけだ。
この角朝臣道守も猿田彦で大伴狭手彦と同一人物と考えていいだろう。

猿田彦に関しては下図で再確認した。
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実は猿田彦が大伴狭手彦でキーワードが「道」であることに改めて気がついて、もう一度私の考えを修正しなければならないことに気がついた。
つまずきは『播磨国風土記』託賀郡賀眉の里の解釈の間違いからで、猿田彦を天目一命と同一人物だとしたからである。
その間違いを表した図がこれである。この図は今となっては無し。
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