日本書紀の謎を解く200・皇極三年正月条よりわかること

皇極三年正月条は、中臣鎌足が蘇我入鹿を討つべく、中大兄皇子に蹴鞠で近づくと言う有名な場面が書かれているのだが、
それ以上にこの皇極三年正月の記録は日本書紀の謎を解くためのヒントがたくさん取り込まれていて、私には興味深い内容である。

手の湿疹がなかなか治らなくて、字がうまく書けないので恥ずかしいが、
この記録でも気づきを記した情報カードを公開する。
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ちなみに大彦と武渟川別が阿倍臣の祖ということになっているのだが、
これは出自を男系に求めたからだろうと思われる。
阿倍氏の先祖を男系で辿ると、一つには彼らがいるということである。
日本書紀の編纂者たちは母系出自と父系出自を混ぜこぜに表記して、私たちが混乱するようにしているようだ。
つまり大彦あるいは武渟川別が入婿したと言うことになる。
私は大彦ではないかと考えている。
息子の武渟川別に名前が似ているのが越のヌナカワヒメである。
古事記の中で彼女のもとに通ってきたのは八千矛神である。
八千矛神は播磨国風土記の記録から天日槍と同一人物ということになる。
息子の武渟川別は大伴狭手彦ではないだろうか。
ヌナカワヒメは吉備の媛(兄媛、黒比売)である。



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最後に

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天皇家と藤原氏は同体である。
昔から天皇家に姓がない理由が色々と言われてきたが、実は藤原さんだったのではないか。
豊受大神は丹波国からこの地に遷したといわれるが、その理由は丹波国が神前皇女(桑田玖賀媛)の終焉の地だったからではないかと考える。
安閑天皇の皇后となるチャンスを失った彼女は播磨国造速待に下賜される。最後に彼女に与えられたのが丹波国桑田郡だったのである。そこが藤原宮だったかどうかはわからない。允恭紀には天皇に匿われている間を茅渟宮としている。
以前にも述べたと思うが、この藤原氏の始まりは今伝えられるように藤原鎌足ではない。藤原宮を与えられた安閑天皇の妹にして妃の神前皇女である。複雑な経緯を経て天皇から下賜された彼女と結婚した藤原鎌足は、彼女の入婿に過ぎないのである。

しかし天皇家の継承権を握る神前皇女と結婚したということは、藤原鎌足は天皇になる資格を得たともいえるのである。
これが隼人の乱の一因と考えてもいいだろう。

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