日本書紀の謎を解く162・神前皇女その後

以前肥前国風土記の篠原の弟姫は神前皇女で、
一度は安閑天皇から大伴狭手彦に下げ渡されましたが、
彼が半島に渡ってすぐに、何者かに略奪されたことを述べました。
その後彼女はどうなったのか。
そのことについて述べたいと思います。
彼女は略奪されたのですが、彼女は狭手彦よりも略奪した男を選びました。
そのことについて書かれているのが、
したの記録です。
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神前皇女は継体の新政権成立に多大な功績があったこの男を選んだのです。
このことは出雲国風土記の加賀の神埼です。キサカヒメは角の弓矢ではなく金の弓矢を選びました。
金の弓矢ですから大伴金村で良いのではないかと考えます。
皇女のプライドでしょうか。また年齢を見ても狭手彦は彼女より年下でした。年齢的にも金村の方が合うような気がします。
播磨国風土記の託賀郡都麻の里で、讃岐日子は「我は其れ拙きかも」と言って去っていきます。

また私の故郷因島(狗の島)の名の由来となった物語。
厳島姫(市杵島媛)はこの島に住もうとやってきたのですが犬が多くて、
犬を嫌った厳島姫は現在の宮島に逃げて神殿を作ったということです。
狗人を狭手彦だとすれば内容は一致します。

神前皇女が大伴金村のものになった後のことを書いているのが次の記録です。
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この双子の出産は長時間にわたり、
彼女は亡くなってしまいます。
神前皇女(月読命)の生んだ二人の御子は、しばらくは金村(天熊人)の手元で大切に育てられますが、
春日山田皇后(天照大神)のもとに送られます。
母系制社会では父が誰かではなく、母が誰かが重要視されます。この二人の御子は春日山田皇后率いる部族に属する人間として認識されます。
たとえ父が大伴金村であろうと、藤原鎌足であろうと、それは重要なことではないのでしょう。


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