日本書紀の謎を解く・134 (懐 橘 談)

民族学研究者、吉野裕子氏の『扇』読んでいて、とんでもない記録に出会いました。江戸初期黒澤石斎によって記された『懐橘談』(p165) です。なんとそこには新羅が日本に侵攻した記録がはっきりと記されていたのです。
急いでインターネットで調べると国立国会図書館デジタルコレクションで読めることがわかったのでコピーをとって、じっくりと目を通しました。新羅の侵攻の記録のみならず、風土記の解釈でも参考になりそうなものがいくつか見つかりました。本当に便利な世の中になったものです。ただこの記録の出典がわかりません。佐太神社の縁起の可能性は高いですが。大変興味深い内容なので紹介します。



『懐橘談 下』 秋鹿郡 佐太


「当社の神主は昔天智天皇の御時、蒙古蜂起して日本に乱入。既に帝都に入らんとせし時、大伴氏勅を蒙り播磨の国蟹坂にて胡敵を打平げ給ふ。帝大に叡威ありとして勝部(すぐりべ)氏を賜はり、当国の別駕となり、当社の神主職を兼ね給ふ。神勅によりて扇を幕の紋とせり。然りしより大伴氏にて、今は正神主権神主と申して両家なり。
千早振神代にも胡利国の鬼ども我国を攻めけるに、数万艘の兵船を海上に浮べ、よせ来る。されども此国には伊弉諾伊弉冊の二神まします故に恐れて陸へは上がらず、諸神いかにして鬼を陸へのぼせ討たんとはかり給ふ所に、二神俄かに崩御なりとふれて此の佐太に葬り奉る烟を鬼ども見て悦び、此国の主二神は崩じ給ひぬ。何の恐れかあるべきとて、船より飛下り飛下り攻めけるを、諸神はかりよせて一度に攻めかかり、多く切伏せ射伏せ給ければ残党みな遁去りぬ。生捕る所の鬼八十八員を二神めして我に帰服せば命を助くべしと詔ひけるを、鬼ども大に悦び命を助かれば此国の守護神となるべしと誓約し、二神に誓ひ奉りぬ。後には其形を板に刻みて社頭の4面に立ておきぬ。八十八員の早人と云う是なり。
天下に凶怪あらんとては必ず早人鳴騒ぎ殿より下へ落ちけるを早人の飛び給ふとて諸人恐れぬる事なり。抑も世に語り侍るモクリといへる者はいかなる鬼にや不審なり。
昔宋朝亡びて元朝にうつり、太祖は蒙古国の人なり。此時に日本を攻めんとせし事、国史に詳なり。是ははるか人皇の時なり。彼蒙古を世俗誤りてモクリ国といふなり。又佐太と書いてかばねをさらすと読むと云ふ事、一向筋なき事なり。
又火葬の我朝始まりし事、文武天皇四年道昭和尚より事起れり。二神葬るまねして煙を見せたるなどあまりに無下の事なり。天神地神の御代に異国より日本を攻めし事、神書舊記にも見え侍らず。胡元日本を攻めし事は千早振神代の事にも非ず。東の蝦夷の類とも云ひがたし。皆是信用すべからず。」


簡単に説明しますと、
天智天皇の御代に蒙古が日本に乱入して、まさに帝都に入ろうとした時大伴氏は天皇の命令を受けて播磨国の蟹坂で撃退したのです。天皇は大いに喜んで大伴氏に勝部氏(すぐりべのうじ)を賜って、出雲の別駕(副長官)となり出雲の佐太神社の神主職を兼ねたということです。
千早振神代にも胡利国の鬼どもが数万艘の兵船を海上に浮かべ我国を攻めようとすることがありましたが、我が国には伊弉諾、伊弉冊の二神がおられたために、上陸してできませんでした。諸神はどうやって鬼たちを陸にあげ討つべきかと計り、二神は急に崩御されたとふれまわり、二神を火葬する偽りの烟をあげることにしました。煙をみた鬼たちは喜んで船から飛び降りて攻めてきたところを諸神が一度に攻めかかったので鬼たちはにげさっていきました。このとき生け捕った八十八人の鬼を二神は召して、帰服すれば命を助けようというと言うと鬼たちは大いに喜んで、命が助かればこの国の守護神となりましょうと制約し二神に誓いました。この八十八人の鬼は早人と言います。
天下に凶怪あるときは必ずこの早人が騒ぎ立てていると人々は恐ると云うのに信じがたい内容である。昔蒙古が日本を攻めた事は国史に詳しく書かれている。これは人皇の時代の話である。(モクリと佐太の読み方については出典がわからないので略す)
また火葬は我が国においては文武天皇の頃から始まった事だから、二神を火葬にしたなどとあまりに無下な事である。天神地神の御代に異国が攻めてきたなど神書や舊(旧)記にも見当たらない事だ。皆これを信用してはいけない。


という事でもっともな内容に思えますが、私にすると、おそらく佐太神社の縁起と思われるこの記録は、既に日本人が忘れてしまった重大な真実が形を変えて残されているように思われます。
一つは新羅が日本へ侵攻してきた出来事。
二つ目は隼人の乱です。
一番最初に紹介される天智天皇の御代の記録は「新羅の役(えだち)」に関する記録で、日本国内まで新羅が侵攻していた私の説を証拠づける内容です。
ただこの記録で私の説を一つ訂正しなければならなくなりました。以前雄略二十二年征新羅将軍吉備臣尾代が蝦夷を討つ記録で尾代は、景行天皇の和風諡号の後半部と読みが同じオシロなので、称制を開始した勾大兄皇子(安閑天皇)のことだろうとしましたが、大伴氏だということが、この懐橘談で判明しました。考えすぎだったようです。
では勝部(すぐりべ)は誰かということになりますが、今のところ村主(すぐり)ではないかと思います。つまり鞍別村主司馬達等、身狭村主青。大伴金村ではないかと考えます。これも考え過ぎかもしれませんが。大伴磐、大伴狭手彦兄弟は、まだこの時二十代前後でこれだけの戦いができるとは思えません。

神代の御代にあった異国の侵攻の記録は、この新羅の役のときの記録と三十年後の隼人の乱の処分に関する記録が合わさったものと考えられます。
雄略二十二年是歳条、征新羅将軍吉備臣尾代の記録で蝦夷が「吾が国を領(す)べ制(をさ)めたまふ天皇、既に崩(かむあが)りましぬ。時失ふべからず」といって侵攻してきます。『懐橘談』と一致するところです。継体天皇が崩御して、皇后や勾大兄皇子、大伴氏たち重臣は「天皇の喪を諾(しな)めて、天下に知らしめず」「若し百姓知らば、懈怠(おこたり)有らむか」(仲哀九年春二月条)と言って、天皇の死を伏せようとしましたが、どこからかもれてしまったのでしょう。
この記録の後半は新羅の役(えだち)から三十年後の隼人の乱の結末を記しています。早人は隼人のことでしょう。生け捕られた隼人は命を助けてもらう代わりに、日本の守護神となる事を誓います。
このことは神代第十段一書第二の「火酢芹命の苗裔(のち)、諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻(みかき)を離れずして、代に吠ゆる狗して奉事(つかへまつ)る者なり」の記録を指すととってもいいのですが、私は記紀を調べていくうちに日本を代表する神社などに祀られる神がほとんど大伴一族を神としている事がわかってきました。
謀反人が日本の神となる。現代人には理解しにくいことですが、もしかするとこれは御霊信仰に通じるものではないかと思うのです。
広辞苑には「御霊」とは霊魂の尊敬語。のちに、尋常でない、祟りをあらわす「みたま」とあります。また「御霊信仰」とは疫病や天災、非業の死を遂げた人物などの御霊を鎮めることによって平穏を回復しようとする信仰をいいます。非業の死を遂げた人の中には菅原道真のように神として祀られる場合もありました。
もしかすると昔読んだ何かの本が影響しているかもしれませんが、私の考えを述べさせていただくと、古代人にとって「神と交信できる天皇」を脅かし、その地位をひっくり返す人間というのは、天皇以上の力を持つ、あるいは神以上の悪魔的な強い力を持つ人間と考えられたのではないかと思うのです。特に水軍の宰、まだ名前は言いませんが、この人物も、吉備姫も、自分の心のままに生きることができる、人間としてかなり強い性格を持った人間だったことが見えてきています。私の説では吉備姫の分身の一人が天鈿女命なのですが、彼女について岩波書店の日本古典文学大系「日本書紀 上」補注1ー82に古語拾遺の一文を紹介して、このように伝えています。

天鈿女命<古語天乃於須女、其神、強悍猛固、故以為名、今俗、強女謂之於須女、此縁也」

訳すと、古語では「ウヅメ」ではなく「オスメ」といった。それは性格が強悍猛固だったからオスメと言われた。今はそういう強い女を強女という。ということです。
「強悍」は心悪しく、猛々しいこと。「猛固」は広辞苑にはありませんので一つ一つ漢字を見ていくと「猛」はやはり猛々しいを意味し、「個」は強いとあります。頑固、強情とでも解釈するのでしょうか。オスメは雄女、男女ということなのでしょう。またこの強悍猛固こそ海の民隼人を表す言葉かもしれません。
彼らはそういう人間達でしたから、人々は彼らの強さを恐れ、その死後の祟りを恐れたのではないかと思います。それで彼らを神として祀ることにしたのではないかと思うのです。
また継体天皇のわずか七年の治世を見たとき、それは天然痘の大流行、そして百済や新羅との難しい外交と、新政権樹立と同時にいきなり大変な困難に見舞われ、振り回されていたことがわかります。そして継体天皇崩御後、ついに新羅は海を渡って日本国内に乱入し、日本国内は荒廃の極みに達してしまいます。
このような恐ろしい体験をした古代の人たちは、彼らの悪魔的な強さによって日本をを守ろうと考えたのではないでしょうか。実際大伴金村の力によって新羅を撃退することができたわけですから彼を国の守護神とするのは当然のことのように思えます。

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