日本書紀の謎を解く・131(任那四県割譲から新羅の役まで)

2016年12月に公開した「己汶、帯沙割譲」で、継体紀に記される己汶、帯沙割譲までの順番がおかしいのではないかという疑問をもち、そこから己汶、帯沙に関する記録の正しい順番を推測し、この出来事が継体即位五年目の出来事ではないかという結論に導きました。
先日もう一度このブログを読み直したのですが、自分の書いたものにもかかわらず実にわかりにくいのです。推敲をもう少し重ねて公開するべきだったと反省しました。
それでもう一度己汶、帯沙割譲について書きなおそうと記録にもう一度目を通していくうちに、新たな解釈の可能性が出てきました。


一年ほど前から隼人の乱の様子が少しづつ見えてくるにつれて、欽明紀に登場するトラブルメーカー、河内直、移那斯(えなし)、左魯(さる)等がどうも大伴親子、火焔皇子のことを指しているのではないかと思うようになり、欽明紀に記される朝鮮半島との外交記録の大部分は隼人の乱が巧みに挿入されているのではないかという疑いを持つようになりました。
そして顕宗天皇三年紀生磐宿禰の記録に「東道」と書いて「やまとぢ」と読ませていることに気がついてから、このことは確信に変わりました。
そして今回己汶、帯沙に関する記録ににもう一度目を通してみると、ここにも巧妙に朝鮮半島の出来事と日本国内の出来事が重ねられている可能性が出てきました。

今、正直にいえば己汶、帯沙に関する七年、八年、九年、十年の数字はどこにも当てはまらないのです。以前ブログを公開した時には、前回はまだ隼人の乱など見えていなかった時ですから、この時は年表に記されているあらゆる数字を見て、一番近い数字の並んでいる欽明天皇の年齢が紀年として利用されているのだろうと結論づけました。
恥ずかしながら正直に言えば、欽明天皇がいつ生まれたのかは正確にはわかっていないのです。欽明天皇の年齢の作り方は、こうでした。まず今古伝に伝えられるいくつかの欽明天皇崩年をエクセルで作った年表の欽明崩御年のところに置いて、数字を一つづつ左へ減らしながらエクセルの表の中に年齢を入れていきました。一方で継体天皇が筑紫に降り、勾大兄皇子が弟橘姫(日向髪長媛)を妃とし、欽明天皇が誕生したのはその一年後だろうなどと考えながら、年表の数字を「ああでもない、こうでもない」と数字を動かしながら割り出した誕生年ですから実は確実なものではありません。
さらに木花開耶媛と弟橘媛が同一人物の可能性も出ています。そうなると火焔皇子が生まれた後になりますから、もう少し後ろにずれることになります。
そういうことがあって、もう一度この継体七年、八年、九年はいつのことなのか、きちんと考えるべきだと思いました。
そして、もう一度記録に目を通していたとき、前回注釈を鵜呑みにして何の疑問も持たなかった伴跛国(はえのくに)は直感的にですが荑媛(はえひめ)のハエではないかと思ったのです。荑媛、つまり春日山田皇后のことです。分身は神功皇后です。
そうすると七年、八年、九年、十年の記録は辛亥の変(安閑天皇死後六年目)の翌年から隼人の乱鎮圧の年までの記録の可能性が高くなります。活目入彦五十狭茅が幼い天皇を退けて自ら天皇となったあたりということになります。つまり隼人から王権を奪還しようとする春日山田皇后との戦いを、三十年前に実際にあった己汶、帯沙割譲の記録に重ねながら記している可能性があるということです。神功皇后紀の麛坂王と忍熊王の謀反の部分にあたるということになります。

このようなことが見えてきてから、己汶、帯沙割譲までの経緯(順番)がおかしいなど私の中で小さなこととなりました。兎も角も己汶、帯沙割譲は五年の出来事には違いない。ここで一気に任那四県割譲から新羅の役(えだち)までをハッキリさせておこうという気持ちになりました。
ただ欽明紀をはじめとして日本書紀の朝鮮半島外交の記録の中には倭王権にとって都合が悪い隼人の乱の記録が巧妙に重ねられ複雑に絡まっているようなので、これを調べて正確に分離するのにまだかなり時間がかかりそうです。ですから任那四県割譲から新羅の役に至る過程を、基本的に己汶、帯沙割譲の記録と次の二つの記録を中心に考えていくことにしました。これだけでもかなりのことが見えてくると思います。

(1)神功皇后の摂政四十六年から五十二年まで。
継体天皇による新政権発足後から多沙を割譲するまでの百済との外交の大まかな流れが記されています。この根拠は神功皇后五十年に「多沙城を増し賜ふ」という一文があるからです。この記録から五年分遡っていくと四十六年が継体即位元年となります。この年に百済が新政権に対して言ってきそうな内容です。この四十六年から五十二年という数字は、この数字から仲哀天皇九年を引くとそのまま勾大兄皇子(安閑天皇)の年齢となりました。

(2)推古天皇八年是歳条と三十一年是歳条、欽明天皇元年九月五日、雄略天皇九年三月条は同じ時の記録なのでこれを使いました。同じ記録としたのは、まず天皇が自ら新羅を討とうとすること。それに対して神、もしくは家臣の一人が諫めること。新羅が任那を攻撃する、あるいは併合すること。日本の報復に対し一旦は新羅は降参するが、再び任那を攻撃することなどがこの四つの記録のどこかに入っているからです。これらの共通点があるので同じ出来事を記しているとしました。

なお日本書紀の記録読み解く上での注意点は、紀年月日にあった出来事に至るまで、数年間の出来事を一緒に長々と書いてあることがあるので要注意です。
例えば継体六年十二月条の記録は一般に任那四県割譲した時の記録と現在理解されていますが、実は東国遠征に行っていた勾大兄皇子が倭に戻ってきて、任那四県を百済に割譲したことを知ったのが六年の十二月なのです。
神功皇后摂政五十年(50-9=勾大兄皇子41歳、継体五年)五月に「多沙城を増し賜ひて」とあるので任那四県割譲はその前にあったということです。さらに日本武尊こと勾大兄皇子が、倭に戻るまで任那四県割譲を知らなかったということは、景行四十年(勾大兄皇子四十歳)に東国遠征に向かった後になります。この間に任那四県割譲があったということです。

神功皇后四十九年春三月条に、家臣の一人が「兵が少なくては新羅に勝てません。沙白、蓋廬(かふろ)を加えて兵力を増しましょう」という提案を受けて、沙白、蓋廬(かふろ)の二人を加え新羅を破っています。
この蓋廬(かふろ)ですが、この人物は雄略五年夏四月条に記される蓋鹵王こと、安閑天皇のことです。前回、この記録は百済側の記録と見せかけて、実は安閑天皇妃だった吉備の姫が安閑天皇の息子火焔皇子との間に不義の子供をもうけて故郷へ返される場面が真相だと述べました。生まれてくる不義の子を我が子として育てようと思った安閑天皇が、生まれたらすぐに倭に連れ戻すようにと命令するのです。
ということは蓋鹵王(かふろわう)にそっくりな名前のこの蓋廬(かふろ)は勾大兄皇子を指している可能性があります。景行四十年七月条に東国の蝦夷が反乱を起こ天皇は日本武尊に討伐を命じますが、このとき日本武尊は「臣(やつかれ)は先に西を征(う)ちしに労(いたは)りき。是の役(えだち)は必ず大碓皇子の事ならむ」と答えます。私たちはこの言葉を読んで勝手に西征は出雲征伐のことだと思い込んでいますが、実は日本書紀に日本武尊の出雲征伐は書かれていません。古事記に日本武尊の出雲征伐はありますが、それと全く同じような物語が崇神六十年条に記されています。私は日本武尊の西征とは実は新羅との戦いのことを言っているのだと思います。
神功皇后四十九年三月に新羅との戦いがあったとしたら、帰って直後七月には東征の命令が下ったというわけです。そして十月に東国に向かって出立しました。これが勾大兄皇子、四十歳の出来事です。継体天皇即位五年目の出来事です。

少しずれましたが、ここでもう一つの記録推古八年是歳条の記録を見てみますと、この記録も実はこの紀年月日が示しているのは一番最後の「即ち新羅、亦、任那を侵す」で、それまでの99%はそこに至る経緯にすぎません。
任那が滅亡したのは欽明二十三年春正月条に「一本に云はく、二十一年に任那滅ぶといふ」とあるので継体天皇即位八年目のことだと思われます。このときすでに継体天皇は崩御して、息子の勾大兄皇子が称制を開始しています。

私の導き出した年表を公開します。拡大できます。
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倭国に樹立した新政権に対して新羅はそれまでの朝貢をしない方針をとりました。いっぽう百済は継体天皇の足元を見て、朝貢を約束すると同時に日本へ貢物を送るルートさえしっかりしていれば貢物を海水などで駄目にしなくて済むと任那の一部割譲を要求してきます。
この新政権樹立後百済が初めて朝貢してきた時、天皇(神功皇后となっていますが)と皇太子は大変喜び、皆涙を流したとあります。継体天皇が半島からの兆候がなかったことを如何に気にし胸を痛めていたかがよくわかる記録です。
大陸に倣って、それまでの日本の王朝にはなかった強力な中央集権国家を作り上げようと夢見ていた継体天皇にとって、百年前から続いていた朝鮮半島からの朝貢が自分の代になって途絶えてしまうということは致命的な打撃を意味します。新政権の威信は深く傷つき、その後の国内の改革に大きな影をもたらすことは必至でした。
任那四県割譲は穂積押山らが賄賂を受け取ったことによるとされますが、本当に彼らに全ての罪を負わせることができるのか。私は百済のせめてもの朝貢を確実なものとするために任那四県を百済に割譲することが政権によって決定されたのだのではないかと思います。
しかしこのことは朝鮮半島のバランスを崩しました。度重なる新羅の攻撃に任那はついに滅亡に追い込まれ、ついに新羅と加羅国の連合軍は海を渡って日本へ攻め寄せてきたのです。
不幸にも継体天皇は新羅の不穏な動きの中崩御してしまいますが、その夢は息子の勾大兄皇子(安閑天皇)へと受け継がれます。
父継体から息子の勾大兄皇子へ新国家のビジョンがつたえられたのが、おそらくこの場面でしょう。私が大好きな場面の一つです。

神代第八段一書第六
嘗(むかし)、大己貴命(おほあなむちのみこと)、少彦名命に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「吾等(われら)が所造(つくれ)る国、豈(あに)善(よ)く成せりと謂(い)はむや」とのたまふ。少彦名命対(こた)へて曰(のたま)はく、「或は成せる所も有り。或は成らざるところも有り」とのたまふ。是の談(ものがたりごと)、蓋し幽深(ふか)き致(むね)有らし。

継体六年十二月、父継体の容体が悪いことを早馬で伝えられた勾大兄皇子は急ぎ東国から戻ってきます。勾大兄皇子は父継体の寝ている横に静かに座り父の目が覚めるのを待ちます。しばらくして継体は目を覚まし、傍に勾大兄皇子がいることに気がつきました。部屋は暗く、小さな油皿に差し込まれた燈心のさきに灯火がひとつ。その小さな灯火一つ灯るだけの仄暗い部屋の中で親子は静かに話を始めます。しばらくして勾大兄皇子の「私たちが作った国はうまくいっているのでしょうか」と問いかけます。継体は遥かな遠くを見るようような眼差しをしてこう答えます。「うまくいったこともあるだろう。しかしうまくいかなかったこともある」
継体は、天然痘の大流行と朝鮮半島の不穏な動きに振り回され、自分の果たすことが叶わなかった統一国家日本のビジョンを勾大兄皇子に向かって話し始めます。
この二人だけの静かな会話の中で、継体天皇は勾大兄皇子に天皇位を譲位することを決断したのだと思います。
目に入れても痛くないほど溺愛している皇太子厚皇子(あつのみこ)はこの時まだ十九歳。中国語で書かれた外交文書を書記なしでスラスラと読めるほどの当時一級の知識人でした。しかしその胆力はといえば所詮は十九歳。日本武尊と諸国の首長から賞賛される勾大兄皇子に敵うわけもなく、とても朝鮮半島との間にある難局を乗り越えられるとは思えなかったのです。
継体天皇は勾大兄皇子に天皇位を譲位することを宣言し、その日のうちに崩御しました。



この場面を描いたのは何度目でしょうか。三度目かな。
この場面が大好きなんです。

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