ああ、やっぱり!

やはり大伴磐と大伴狭手彦を
取り違えていたのでしょうか。

播磨風土記を読んでみたらスラスラ読めました。
伊和大神も勘違い。
つまり磐鹿六雁も勘違い。

でも
倭国造が合わなくなる。
倭国造手彦は間違った解釈をさせるための
引っ掛けだったか。

「あんたが「倭国造手彦」を
大伴狭手彦だって勝手に勘違いしただけでしょ」
って日本書紀の編纂者たちが
嘲笑ってるような気もしなくもない。

でも調べている最中に
父親の大伴金村を分離できた。
あーー、よかった、よかった。

もう少し考えてみよう。
で、その発表の前に
もう一度タサ、コモンについて書き直さなきゃいけない。
以前書いたのを読んだら、
わかりにくい、わかりにくい!
恥ずかしいったらありゃしない。

よく、こんなもの丁寧に呼んでくれたなぁって
感謝しかありません。
多分任那四県割譲、
コモン、タサの追加割譲については
わかってらっしゃるでしょうが
もう一度書き直します。

それから大伴金村です。
とりあえず大伴磐と大伴狭手彦は入れ替えです。

海の宰は大伴磐でした。




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