日本書紀の謎を解く・128 (隼人の天皇 2)

播磨国風土記の中にも隼人の天皇大伴狭手彦(一般的によく知られているので大伴狭手彦を使います)について書かれていると思われるものがあるので紹介します。逸文です。

速鳥(はやとり)
播磨国の風土記に曰ふ。明石の駅家。
駒手(こまで)の御井(みゐ)は難波高津宮の天皇の御世、楠、井の上に生ひたりき。
朝日には淡路島を蔭(かく)し、夕日には大倭嶋根を蔭(かく)しき。
仍(すなは)ち、その楠を伐(き)りて船に造るに、其の迅(はや)きこと翔ぶが如く、一楫(ひとかぢ)に七波を去(ゆ)き越えき。仍りて速鳥と号(なづ)く。(以下略)


「駒手(こまで)の御井(みゐ)は、難波高津宮の天皇の御世、楠、井の上に生ひたりき。」は不思議な文章です。この文章中「駒手の御井」か「楠」のどちらかが井の上に生まれたということのようです。
まず「楠」を取り、「駒手(こまで)の御井(みゐ)、難波高津宮の天皇の御世、井の上に生ひたりき。」とするとスッキリしたように思えますが、角川ソフィア文庫『風土記 上 (常陸国・出雲国・播磨国)』のP425の注1には「駒手の御井」は馬に水を与える場とあります。駒手の御井がさらに井戸の上に生まれるというということになれば一層意味がわからなくなります。
では「楠」を残して、「難波高津宮の天皇の御世、楠、井の上に生ひたりき。」とするかです。そうすると、井の上にという点はややひっかかるところですが、まぁまぁ理解はできます。
直感ですが、この楠と駒手の御井は同じものを指すのではないでしょうか。
「駒手」の駒は馬の子のことですから蘇我馬子のことです。蘇我馬子は大伴狭手彦の分身です。「手」は桟手の手で大伴狭手彦の手でしょうか。
「楠」はこれは船材としての楠とは別に、大伴狭手彦の分身葛城襲津彦を意味しているようです。葛城襲津彦から生まれた分身が続日本紀に登場する葛城王橘諸兄となります。
実は南北朝の武将楠木正成はこの橘諸兄の後裔を称していたらしく、国栖(くす)、楠(くす)と葛(くず)は音が同じところから同じものと考えられていたのではないかと思われます。
またこれは隼人の乗った船に名付けられたと思われる天磐豫楠船などからも推察できるのではないかと思っています。直感的ですが磐と豫樟は隼人の水軍の長大伴磐と大伴狭手彦兄弟を表していそうです。
古事記と日本書紀に記される船をあげて見ました。船名に鳥がついているのは、地上の車が決まった道の上でしか動けないのに対して、道のないところを自由に早く動き回れるものとして古代人は船と鳥のイメージを重ねたのかもしれません。大空と海原はどちらも自由を象徴するものだったかもしれません。人から束縛されることを嫌い、自由を愛する海洋民族らしい名前のつけ方だと思います。

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上記の天鳩船(あまのはとふね)に関する注釈(岩波文庫の日本古典文学大系「日本書紀 上」の注20)にハトは早(ハヤ)と速(ト)との意とも解される、とあります。ハヤ+ト=ハト(鳩)となったということなのでしょうが、この注を書かれた方が歴史の真実に限りなく近づきながら素通りしてしまったのか、実際どこまで気がつかれていたのか気になるところです。隼人です。

では「駒手の御井」の「御井」は何を表すのか、大伴狭手彦を表す楠が井の上に生まれるということは何を指しているかということですが、私は大伴狭手彦が幼い天皇の後ろ盾となり、さらにその井の上に立ったということではないかと考えています。
井戸に関する人物を日本書紀中から探してみると、まず日本書紀から反正天皇です。
この天皇は淡路宮に生まれました。しかし不思議なことにこの天皇だけがなぜ淡路島で生まれたのか、その理由はどこにも書いていません。この淡路宮には井戸が一つあり、生まれたばかりの反正天皇はその井戸で産湯をつかったと記されています。
井戸に関係するもう一人が、古事記の安寧天皇(和風諡号:師木津日子玉手見命)と同じ名前を持った皇子師木津日子命から生まれた、つまり孫に当たりますが和知都美命(わちつみのみこと)です。彼は淡道(あわぢ)の御井宮に坐(いま)しきとあります。日本書紀にこの記録はありません。
和知都美命(わちつみのみこと)とは、わざとらしい名前ですが、ワタツミ(海神)と言いたいのです。海神に関係がある人物だということに気がついて欲しくて、兄を創作して、このように記しました。

一(ひとはしら)の子の孫(うみのこ)は・・・(意味がないので略)・・・。
一(ひとはしら)の子和知都美命は淡道御井宮に坐(いま)しき。


和知都美命の兄は名前が記されていません。孫と書いて「うみのこ」というのも変です。どうひっくり返したって孫をウミノコとは読みません。これは和知都美はワタツミだと気がついて欲しいのです。
また天皇の「孫」は当時の言葉で尊称のミと合わせて「ミマ」と言います。ミマといえば雄略即位前紀に御馬皇子(みまのみこ)という人物が登場します。この記録を見るとこの人物も井戸に深い関係があることがわかります。和知都美命の名無しの兄の「孫」という漢字は、実はこの御馬皇子へつなぎたいのです。
雄略天皇即位前紀に登場する御馬皇子(みまのみこ)の記録は、この皇子の最期の様子を記しているのです。御馬皇子の祖父は安閑天皇ではないかと思われます。表面上は安閑天皇の子供として育てられますが、実は当時安閑天皇の妃だった吉備姫と火焔皇子との間にできた不義の子供です。つまり安閑天皇は祖父になるのです。
この記録こそ継体二十五年冬十二月条に記される辛亥の変一部ではないかと思います。百済本記の「日本の天皇及び太子、皇子、倶に崩薨りましぬ」です。
ほかにミマといえば観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)がミマツヒコも考えられそうです。孫津彦(みまつひこ)、孫の皇子ということです。

また、この皇子の誕生を表しているのが雄略五年夏四月条、百済の武寧王に関連する記録を利用しています。この記録も不思議な内容です。百済の蓋鹵王(かふろわう)は弟昆支(こにき)王に日本の天皇に仕えるように申し渡します。このとき昆支王は蓋鹵王の妃を賜り日本へ渡りたいと言います。蓋鹵王は妃は産月に入っているから、生まれたら船に乗せて百済に戻すように申し渡します。案の定筑紫の各羅嶋(かからしま)に着いた時に妃は出産します。この時生まれた子供が嶋君(しまきし)、後の武寧王だというのです。
日本へ来る時兄の蓋鹵王の妃を賜るというのも不思議なら、蓋鹵王もなぜわざわざ臨月の女性を与えたのか。それに生まれた武寧王がこの時百済に戻ったのなら、雄略二十年冬条高麗が百済を滅ぼし、蓋鹵王始め太后、王子がことごとく殺されたという記録があるので、この時に殺されてしまいそうです。
この物語の登場人物を百済の出来事ではなく、日本の出来事として登場人物を当てはめるとすれば、妃は吉備姫、蓋鹵王は安閑天皇、昆支王が大伴狭手彦ということになるのではないかと思います。そして出産した嶋は本当は淡路島だったのではないかと思うのです。つまり反正天皇の誕生時のエピソードにつながるのです。
源氏物語にこのときのエピソードを求めるとすれば、父天皇の若き美貌の妃と関係を持ち子を為した光源氏が、父は実は二人の関係に気がついているのではないか、生まれた子供は自分の子供ではないこと薄々気がついているのではないかと罪の意識に苦しめられます。後年自分の妃女三宮が柏木と密通し子供ができた時、若き日の過ちを悔い薫を我が子として育てる決心をする、いう有名な場面になるのではないかと思います。
日本書紀に安閑天皇が過去を思い出し煩悶するというような、あるいは我が子として育てようと決心するような場面は見つかっていませんが、その元となった物語だと思われます。
この不義の皇子の分身、香具山や観松彦香殖稲天皇など「香」がついているので、紫式部はそこから薫と命名したようです。

次に「朝日には淡路島を蔭し、夕日には大倭嶋根を蔭しき」は水軍を率いる大伴狭手彦が瀬戸内海の要衝である淡路島を拝領し支配した(蔭、覆う)こと、人生の最終には大倭嶋を覆った、つまり支配したことを意味するのではないでしょうか。
大倭嶋根の「根」ですが、これは欠史八天皇の大日本根子彦太瓊天皇、大日本根子彦国牽天皇、稚日本根子彦大日日天皇の三人にも入っています。手元の電子辞書の「新漢語林」の「根」から推察すると、それまでの日本にはなかった強力な中央集権国家「日本」の始まりの三人の天皇、この三人の天皇の王朝を「根」という言葉で表しているのがということでしょうか。その最初の王朝は隼人の王朝にたちによって覆されたのですから「大倭嶋根を蔭(かく)しき」となるのでしょう。

最後にこの天皇の最後を記したものとして舒明九年春二月条の紹介をします。

大きなる星、東より西に流る。便ち音有りて雷に似たり。
時の人曰はく、「流星の音なり」といふ。亦は曰はく、「地雷なり」といふ。是に僧旻僧が曰はく「流星に非ず。是天狗(あまのきつね)なり。其の吠ゆる声、雷に似たらくのみ」といふ。


この記録から大伴狭手彦の分身がわかります。「星」と「雷」「狗」です。
雷は雄略紀に登場する少子部連螺蠃(ちいさこべのむらじすがる)や建御雷神(たけみかづちのかみ)です。この少子部連螺蠃の記録は『続日本紀』の孝謙天皇天平勝宝八年十二月十六日条と同じ内容ではないかと思われます。天皇の命によって集めた子供達に葛木連の氏姓を賜い、紫微少忠・従五位上の葛木連戸主の戸に編入して親子の関係とさせたとあります。葛城と葛木の違いはあるとは言え、内容から同じ記録だと考えて良いと思われます。
また日本書紀で建御雷神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)と記されますが別人を表している可能性があります。大伴狭手彦が大伴狭手彦に滅ぼされるということになってしまうところがあるからです。
大伴狭手彦は、また「星辰(あまつみかほし)」などの星で表されます。「天津甕星(あまつみかほし)」と記される場合もあります。
例えば神代第九段一書第二条の「天に悪しき神あり。名を天津甕星と曰ふ。亦の名は天香香背男。」
香(ミマツヒコ)を背におぶっているというわけです。もう一つは神功皇后六十五年、幼い王を退けて百済の王となる辰斯です。
辰は龍を表すと同時に天の中心に位置する北極星を表します。
この文章からわかることは、この天皇の実力を誰もが認めていたことです。それは巨星落つという表現に現れています。

最後に、以前雄略天皇が「有徳天皇」と「大悪天皇」と記されることと、武烈天皇もその人となりの記録に有徳と大悪と言えるような全く正反対の人格がしるされていることから、これは欽明天皇と火焔皇子の兄弟天皇の二朝並立があったことを暗に示しているのだと書きました。しかし欽明は即位後すぐに暗殺されて、天皇としての業績らしいものが残っていないことが見えてきています。ということは欽明天皇はほぼ関係ないのです。
では有徳天皇は誰かと考えると安閑天皇しかないのです。とすると大悪天皇は誰かということになるのですが、内容からすると火焔皇子でいいような気がしますが、それでは二朝並立は導き出せない。
ある時私が導き出した年表を見ると隼人の乱が起きていた時期と古事記の安閑天皇在位期間が重なっていることに気がつきました。
雄略天皇在位期間も、安康元年根使主が大草香皇子から押木珠縵を奪い、それを根使主が身につけた雄略十四年が翌年とすれば、実際は八年しかないことになりますし、武烈天皇も八年です。古事記の安閑天皇も在位期間が八年ということになります。そして天稚彦が八年です。
この八年はまさに隼人の乱の期間となります。
つまり編纂者たちは隼人の乱の時期が古事記の安閑天皇の在位期間と重なることを私たちに気がついて欲しかったのかもしれません。

ということで大雑把ですが天皇となった大伴狭手彦について、わかっているところまでお知らせしました。

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