日本書紀の謎を解く・121 (大伴狭手彦は吾田隼人)
正月の準備のために二十七日で日本書紀に関連する一切の作業をやめることにしていましたが、今朝ふと重大なことを書き忘れていることに気がつきました。それは大伴狭手彦は吾田隼人だったことです。
実は木花開耶姫の産んだ子供については日本書紀の謎を本格的に調べ始めた初期の頃のままの認識で止まっていたのです。とにかく木花開耶姫の生んだ子供について、同じ人物でも漢字が変わっていたり、子供の順番がちがっていたり、子供の人数が違うなど、とにかく記録が「一書に曰はく」「一書に曰はく」と説が沢山ありすぎて、日本書紀を読み馴染めたばかりの頃はとにかく圧倒されっぱなしで、まともに調べてみようという気持ちが失せてしまうほどでした。実はそれも「読者に、まともに読もうという気力を失わせる」という編纂者たちの仕掛けたワナの一つなのですが。
それでその頃の私としては、古事記の神武天皇の妃「阿多の小椅君が妹、名は阿比良比売」が二人子供を生んでいるという記録と、逸文・薩摩国の竹屋村の記録から木花開耶姫が生んだ子供が二人ということが分かっているので子供は二人としました。その二人の子供というのは燃え盛る産屋の中で生んだ唖の子供と宣化天皇の庶妃大河内稚子媛が生んだ火焔皇子(ほのほのみこ)、この二人の皇子だろうと決めつけて、それ以上調べてなかったというわけです。
しかし海幸彦の正体をしっかり確認しておこうと、木花開耶姫の生んだ子供たちの記録にもう一度目を通していくと海幸彦(火酢芹命)が吾田隼人だということがわかってきたのです。ただ大伴狭手彦こと海幸彦(火酢芹命)は年齢的に考えても木花開耶姫の子供ではないと考えています。木花開耶姫の兄、つまり阿多の小椅君でよいのではないかと思われます。と同時に木花開耶姫の分身は大河内稚子媛ですから、大河内という名から大伴狭手彦のもう一人の分身は大河内直味張(更の名は黒梭)の可能性が高いとも考えます。味張の「味」は味耜高彦根神の「味」に導こうとしているようです。更の名で黒のつく名前も隼人の乱首謀者を表しているようです。
海幸彦はニックネームのようなもので、神代の各段で使っている漢字に多少違いがありますが「ホスセリノミコト」というにが本当の名前ということになります。それを書き出していくと
神代第八段
火闌降命 → 吾田君小橋等が祖
神代第十段 (一書第二)
火酢芹命 → 俳人(わざひと)、狗人
神代第十段 (一書第四)
火酢芹命 → 俳優(わざおき)の民
すでにこれまでのブログに書きましたが葛城襲津彦は神功皇后の記録から沙至比跪(さちひこ)です。葛城襲津彦の分身の一人が海人の宰(みこともち)阿曇連です。大伴狭手彦の分身たちを集めると彼が海に深く関連した人物だとわかってきます。つまり大伴狭手彦は海幸彦なのです。この海幸彦が狗人であることと、俳優(わざおき)を持って宮廷に使える隷属民だということはすでにわかっていましたが、彼が吾田隼人だということを私は完全に見落としていました。
播磨国風土記にもこのことを匂わせる文章がありました。
高家(たかや)の里
名を高家(たかや)と曰ひし所以は、天日槍命、告りて云ひたまひしく、「此の村の高きこと、他し村に勝れり」といひたまひしき。故、高家と曰ひき。
高家(たかや)は逸文・薩摩国風土記の竹屋(たかや)の里と同じ。日本書紀神代第九段一書第三の「故、彼の地を號けて竹屋(たかや)と曰ふ」の竹屋です。
この薩摩の地になぜ天日槍が現れるのか。不思議ですが、天日槍が大伴狭手彦だとすれば何の不思議でもありません。
また同じく播磨国風土記の記録に
大御伴人、佐伯部等が始祖、阿我乃古、此の土を欲請ひ申しき。天皇、勅して云ひたまひしく、「直に請ひつるかも」といひたまひき。故、多駝(ただ)と曰ひき。
大御伴人は大伴のこと。阿我乃古は阿我の子でしょう。この大伴の阿我の子が領地を欲しいと言ってきた。。天皇はこれを聞いて「ダイレクトに要求してくるなぁ」と言ったということです。
どこかで聞いた話です。蘇我馬子が葛城の地を求めたと云う推古紀のあの話です。
では蘇我馬子こと大伴狭手彦がなぜ阿我の子なのか。
阿は吾田隼人のア。我は多駝のダ。合わせて吾田。つまり「吾田の子」というわけです。また阿我乃古は大倭国造吾子籠を思わせます。日本書紀に記される倭国造を書き出していくと大伴狭手彦に行き当たることはすでに述べた通りです。
海幸彦こと大伴狭手彦が吾田隼人ということになれば、当然木之花開耶媛と弟橘媛は同一人物だったということになります。かなり以前のブログにも書いたこの予感は当たっていたということになりました。やはり「橘」は「木の花」だったということです。
そしてこのことは木之花開耶媛が生んだ火焔皇子は大伴狭手彦にとって甥ということになり、私が欽明としている皇子(大草香皇子)と火焔皇子は同母兄弟ということになります。ということは古事記の記録の方が正解だったということになります。
しかし燃える産屋の中で生まれた子供が唖で言葉を話せないというのはいったいどの子になるのか。新たに疑問が生まれました。
また何故吾田隼人の彼が何故襲津彦なのかという疑問も生まれます。
神代第十段一書第四には
海神の乗る駿馬は八尋鰐なり。是其の鰭背(はた)を堅(た)てて橘の小戸に在り。
八尋鰐はすでに述べた通り大伴狭手彦のこと、橘の小戸はグーグルマップで現在宮崎市内にあることが確認できますから、薩摩の吾田と宮崎市内ではかなり距離があることになります。私は、大伴狭手彦は父大伴金村こと穂積押山の「家の子」として、生まれた薩摩の吾田を離れ船団を率いて父に仕えていたのではないかと考えています。大伴金村は薩摩の吾田の女性首長と結婚することで、おそらく現在の鹿児島県全域、あるいは南九州の隼人族を完全に支配下にいれていたのではないかと思います。
鹿児島という言葉はいつから使われていた言葉なのかわからないと何かで読みました。私は「鹿(大伴金村)の児、島」の支配する領地だったことを伝える言葉だったのではないかと思います。蘇我馬子はもう一つ別の呼び方で島大臣と呼ばれました。一度は天皇の位に上り詰めた彼を地元薩摩の人間たちは誇りに思い自らの郷土の名前を薩摩とは別の言い方として鹿児島と伝えてきたのではないでしょうか。また鹿児島県と宮崎県が島津氏の発祥の地を巡って争っていることをテレビで知りましたが、島津氏がこの大伴金村、狭手彦の子孫であるとしたら、日向諸県でも間違いはないように思います。
私は彼のもつ大船団が船上にきらびやかな旗を立てて現宮崎市内を流れる大淀川の河口付近に停泊している様子を想像します。私は応神天皇の一人は大伴狭手彦と考えています。応神天皇は八幡神とされますが、八幡神の「幡」は船に飾られたきらびやかな旗を意味し、八は八尋鰐の八を表していると思っています。八尋鰐は彼が乗る大きな主力艦の名前だったか、人々がその艦隊を指してそう呼んだのかもしれません。
私は大伴兄弟について調べていくうちに、大伴狭手彦と大伴磐は本当に同母兄弟かという疑問が強く芽生えてきています。日本書紀内の記録ではずっとそれを押し通しているようなのですが、どうしてもそうは思えない記録がたくさん出てくる。
次の記録が大伴狭手彦と大伴磐の関係をよく表しているように思えます。
用明元年五月条
是に馬子宿禰、惻然(いた)み頽嘆(なげ)きて曰はく「天下の乱は久しからじ」といふ。大連、聞きて答へて曰はく、「汝(いまし)、小臣(こまへつきみ)が識(し)らざる所なり」といふ。
蘇我馬子は大伴狭手彦、物部弓削守屋は大伴磐です。大伴磐が「お前ごとき小臣」と蘇我馬子を見下して言っているのです。古代は家族内身分が存在したことが古代人の墓地の考古学調査で知られています。しかし、それとは違うものを感じます。
大伴磐は襲国の首長大伴金村の子として襲国に生まれたのか。それならば大伴磐も葛城襲津彦であっておかしくはありません。しかし葛城襲津彦は大伴狭手彦です。
じつは景行天皇の妃の一人が生んだ子供に「日向襲津彦」という人物が登場します。この人物は阿牟の君の祖とあります。私はこの阿牟を中臣鎌足らしき人物が埋葬されている現大阪府高槻市、阿武山古墳の阿武を指しているのではないかと考えています。つまり中臣鎌足が日向襲津彦ということです。
それで今私が考えているのが、大伴磐の分身の一人「的臣(いくはのおみ)」です。
有明海を中心に北九州周辺を支配していた女性首長と大伴金村との間に生まれた子供が彼ではないかということです。そして九州中央部火国の女性との間に生まれた子供が「阿利斯登が子達率日羅」。私は今のところこの人物が大伴金村の長男と考えていて、三人の男子のうちこの人物だけを自分の生まれた百済に戻した可能性があるのではないかと考えています。そして現在の鹿児島県に当たる全域が大伴狭手彦の支配下にあったと考えているのですが、いかがなものでしょうか。
最後にもう一度最初の火酢芹命に戻りますが、この名前の「芹」の部分は、大吉備津彦こと彦五十狭芹彦命の「芹」で、これはさらに五十狭茅(いさち)につながるということになります。五十狭茅と五十狭芹は大変よく似ていて同一人物ではないかと考えていたのですが、これで確証を得ることができました。
また火酢芹命は火闌降命とも表記されますが、これは彼の人生を表していると思われます。「闌」はたけなわ、盛んであることを意味します。これは天皇まで上り詰め絶頂を味わった。しかし隼人の乱は鎮圧されて人生は一気に下降に向かったということなのでしょう。
また神代第十段 一書第四は、それ以前の記録と違い、海幸彦と山幸彦が逆転していますが、私の考えでは山幸彦が海神のもとでもてなしを受け三年過ごすという一連の話に編纂者たちが違和感を感じていて、それを解消するために作った物語のような気がしています。
私もこの物語を読んでいると、どちらが海幸彦で、どちらが兄だったかこんがらがってわからなくなることがあるのでです。この話は神代の時代の話だから海幸彦は海神、山幸彦は山神に限りなく近い存在です。その山神である山幸彦が海神のもとに行ってもてなしを受け、海神である海幸彦を成敗するための方法を海神が教えるのです。なんだか頭がおかしくなってきそうになります。
おそらく編纂者たちもそのおかしさにどこかで気がついていて、最後の最後十段でこの物語のおかしさを解消するために最後にこの物語を付け加えたのではないかと考えてしまいます。
実は木花開耶姫の産んだ子供については日本書紀の謎を本格的に調べ始めた初期の頃のままの認識で止まっていたのです。とにかく木花開耶姫の生んだ子供について、同じ人物でも漢字が変わっていたり、子供の順番がちがっていたり、子供の人数が違うなど、とにかく記録が「一書に曰はく」「一書に曰はく」と説が沢山ありすぎて、日本書紀を読み馴染めたばかりの頃はとにかく圧倒されっぱなしで、まともに調べてみようという気持ちが失せてしまうほどでした。実はそれも「読者に、まともに読もうという気力を失わせる」という編纂者たちの仕掛けたワナの一つなのですが。
それでその頃の私としては、古事記の神武天皇の妃「阿多の小椅君が妹、名は阿比良比売」が二人子供を生んでいるという記録と、逸文・薩摩国の竹屋村の記録から木花開耶姫が生んだ子供が二人ということが分かっているので子供は二人としました。その二人の子供というのは燃え盛る産屋の中で生んだ唖の子供と宣化天皇の庶妃大河内稚子媛が生んだ火焔皇子(ほのほのみこ)、この二人の皇子だろうと決めつけて、それ以上調べてなかったというわけです。
しかし海幸彦の正体をしっかり確認しておこうと、木花開耶姫の生んだ子供たちの記録にもう一度目を通していくと海幸彦(火酢芹命)が吾田隼人だということがわかってきたのです。ただ大伴狭手彦こと海幸彦(火酢芹命)は年齢的に考えても木花開耶姫の子供ではないと考えています。木花開耶姫の兄、つまり阿多の小椅君でよいのではないかと思われます。と同時に木花開耶姫の分身は大河内稚子媛ですから、大河内という名から大伴狭手彦のもう一人の分身は大河内直味張(更の名は黒梭)の可能性が高いとも考えます。味張の「味」は味耜高彦根神の「味」に導こうとしているようです。更の名で黒のつく名前も隼人の乱首謀者を表しているようです。
海幸彦はニックネームのようなもので、神代の各段で使っている漢字に多少違いがありますが「ホスセリノミコト」というにが本当の名前ということになります。それを書き出していくと
神代第八段
火闌降命 → 吾田君小橋等が祖
神代第十段 (一書第二)
火酢芹命 → 俳人(わざひと)、狗人
神代第十段 (一書第四)
火酢芹命 → 俳優(わざおき)の民
すでにこれまでのブログに書きましたが葛城襲津彦は神功皇后の記録から沙至比跪(さちひこ)です。葛城襲津彦の分身の一人が海人の宰(みこともち)阿曇連です。大伴狭手彦の分身たちを集めると彼が海に深く関連した人物だとわかってきます。つまり大伴狭手彦は海幸彦なのです。この海幸彦が狗人であることと、俳優(わざおき)を持って宮廷に使える隷属民だということはすでにわかっていましたが、彼が吾田隼人だということを私は完全に見落としていました。
播磨国風土記にもこのことを匂わせる文章がありました。
高家(たかや)の里
名を高家(たかや)と曰ひし所以は、天日槍命、告りて云ひたまひしく、「此の村の高きこと、他し村に勝れり」といひたまひしき。故、高家と曰ひき。
高家(たかや)は逸文・薩摩国風土記の竹屋(たかや)の里と同じ。日本書紀神代第九段一書第三の「故、彼の地を號けて竹屋(たかや)と曰ふ」の竹屋です。
この薩摩の地になぜ天日槍が現れるのか。不思議ですが、天日槍が大伴狭手彦だとすれば何の不思議でもありません。
また同じく播磨国風土記の記録に
大御伴人、佐伯部等が始祖、阿我乃古、此の土を欲請ひ申しき。天皇、勅して云ひたまひしく、「直に請ひつるかも」といひたまひき。故、多駝(ただ)と曰ひき。
大御伴人は大伴のこと。阿我乃古は阿我の子でしょう。この大伴の阿我の子が領地を欲しいと言ってきた。。天皇はこれを聞いて「ダイレクトに要求してくるなぁ」と言ったということです。
どこかで聞いた話です。蘇我馬子が葛城の地を求めたと云う推古紀のあの話です。
では蘇我馬子こと大伴狭手彦がなぜ阿我の子なのか。
阿は吾田隼人のア。我は多駝のダ。合わせて吾田。つまり「吾田の子」というわけです。また阿我乃古は大倭国造吾子籠を思わせます。日本書紀に記される倭国造を書き出していくと大伴狭手彦に行き当たることはすでに述べた通りです。
海幸彦こと大伴狭手彦が吾田隼人ということになれば、当然木之花開耶媛と弟橘媛は同一人物だったということになります。かなり以前のブログにも書いたこの予感は当たっていたということになりました。やはり「橘」は「木の花」だったということです。
そしてこのことは木之花開耶媛が生んだ火焔皇子は大伴狭手彦にとって甥ということになり、私が欽明としている皇子(大草香皇子)と火焔皇子は同母兄弟ということになります。ということは古事記の記録の方が正解だったということになります。
しかし燃える産屋の中で生まれた子供が唖で言葉を話せないというのはいったいどの子になるのか。新たに疑問が生まれました。
また何故吾田隼人の彼が何故襲津彦なのかという疑問も生まれます。
神代第十段一書第四には
海神の乗る駿馬は八尋鰐なり。是其の鰭背(はた)を堅(た)てて橘の小戸に在り。
八尋鰐はすでに述べた通り大伴狭手彦のこと、橘の小戸はグーグルマップで現在宮崎市内にあることが確認できますから、薩摩の吾田と宮崎市内ではかなり距離があることになります。私は、大伴狭手彦は父大伴金村こと穂積押山の「家の子」として、生まれた薩摩の吾田を離れ船団を率いて父に仕えていたのではないかと考えています。大伴金村は薩摩の吾田の女性首長と結婚することで、おそらく現在の鹿児島県全域、あるいは南九州の隼人族を完全に支配下にいれていたのではないかと思います。
鹿児島という言葉はいつから使われていた言葉なのかわからないと何かで読みました。私は「鹿(大伴金村)の児、島」の支配する領地だったことを伝える言葉だったのではないかと思います。蘇我馬子はもう一つ別の呼び方で島大臣と呼ばれました。一度は天皇の位に上り詰めた彼を地元薩摩の人間たちは誇りに思い自らの郷土の名前を薩摩とは別の言い方として鹿児島と伝えてきたのではないでしょうか。また鹿児島県と宮崎県が島津氏の発祥の地を巡って争っていることをテレビで知りましたが、島津氏がこの大伴金村、狭手彦の子孫であるとしたら、日向諸県でも間違いはないように思います。
私は彼のもつ大船団が船上にきらびやかな旗を立てて現宮崎市内を流れる大淀川の河口付近に停泊している様子を想像します。私は応神天皇の一人は大伴狭手彦と考えています。応神天皇は八幡神とされますが、八幡神の「幡」は船に飾られたきらびやかな旗を意味し、八は八尋鰐の八を表していると思っています。八尋鰐は彼が乗る大きな主力艦の名前だったか、人々がその艦隊を指してそう呼んだのかもしれません。
私は大伴兄弟について調べていくうちに、大伴狭手彦と大伴磐は本当に同母兄弟かという疑問が強く芽生えてきています。日本書紀内の記録ではずっとそれを押し通しているようなのですが、どうしてもそうは思えない記録がたくさん出てくる。
次の記録が大伴狭手彦と大伴磐の関係をよく表しているように思えます。
用明元年五月条
是に馬子宿禰、惻然(いた)み頽嘆(なげ)きて曰はく「天下の乱は久しからじ」といふ。大連、聞きて答へて曰はく、「汝(いまし)、小臣(こまへつきみ)が識(し)らざる所なり」といふ。
蘇我馬子は大伴狭手彦、物部弓削守屋は大伴磐です。大伴磐が「お前ごとき小臣」と蘇我馬子を見下して言っているのです。古代は家族内身分が存在したことが古代人の墓地の考古学調査で知られています。しかし、それとは違うものを感じます。
大伴磐は襲国の首長大伴金村の子として襲国に生まれたのか。それならば大伴磐も葛城襲津彦であっておかしくはありません。しかし葛城襲津彦は大伴狭手彦です。
じつは景行天皇の妃の一人が生んだ子供に「日向襲津彦」という人物が登場します。この人物は阿牟の君の祖とあります。私はこの阿牟を中臣鎌足らしき人物が埋葬されている現大阪府高槻市、阿武山古墳の阿武を指しているのではないかと考えています。つまり中臣鎌足が日向襲津彦ということです。
それで今私が考えているのが、大伴磐の分身の一人「的臣(いくはのおみ)」です。
有明海を中心に北九州周辺を支配していた女性首長と大伴金村との間に生まれた子供が彼ではないかということです。そして九州中央部火国の女性との間に生まれた子供が「阿利斯登が子達率日羅」。私は今のところこの人物が大伴金村の長男と考えていて、三人の男子のうちこの人物だけを自分の生まれた百済に戻した可能性があるのではないかと考えています。そして現在の鹿児島県に当たる全域が大伴狭手彦の支配下にあったと考えているのですが、いかがなものでしょうか。
最後にもう一度最初の火酢芹命に戻りますが、この名前の「芹」の部分は、大吉備津彦こと彦五十狭芹彦命の「芹」で、これはさらに五十狭茅(いさち)につながるということになります。五十狭茅と五十狭芹は大変よく似ていて同一人物ではないかと考えていたのですが、これで確証を得ることができました。
また火酢芹命は火闌降命とも表記されますが、これは彼の人生を表していると思われます。「闌」はたけなわ、盛んであることを意味します。これは天皇まで上り詰め絶頂を味わった。しかし隼人の乱は鎮圧されて人生は一気に下降に向かったということなのでしょう。
また神代第十段 一書第四は、それ以前の記録と違い、海幸彦と山幸彦が逆転していますが、私の考えでは山幸彦が海神のもとでもてなしを受け三年過ごすという一連の話に編纂者たちが違和感を感じていて、それを解消するために作った物語のような気がしています。
私もこの物語を読んでいると、どちらが海幸彦で、どちらが兄だったかこんがらがってわからなくなることがあるのでです。この話は神代の時代の話だから海幸彦は海神、山幸彦は山神に限りなく近い存在です。その山神である山幸彦が海神のもとに行ってもてなしを受け、海神である海幸彦を成敗するための方法を海神が教えるのです。なんだか頭がおかしくなってきそうになります。
おそらく編纂者たちもそのおかしさにどこかで気がついていて、最後の最後十段でこの物語のおかしさを解消するために最後にこの物語を付け加えたのではないかと考えてしまいます。
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