日本書紀の謎を解く・62(景行(継体)天皇筑紫巡幸ルートを考察する 3 )

速吸之門に現れた珍彦が実は葛城襲津彦、大伴狭手彦、吾子籠と同一人物であることを証明して先に進もうと思いましたが、先週相撲についてwikipediaで調べていて野見宿禰も同一人物であることに気がついたので書いておくことにしました。忘れるので。

wikipediaによると野見宿禰のもう一つの名前は襲随命と言うのだそうです。(『出雲国造伝統略』)どこか襲髄命の襲髄が襲津に似ていなくもない。そこで崇神七年七月条の有名な当麻蹴速と相撲をとって殺してしまう場面を読み直してみました。まずこの場面で注目すべきは、野見宿禰が現在伝えられるような出雲国造に関わる人間とは書かれていなくて、出雲から来た唯の一勇者に過ぎないという書き方です。出雲に野見宿禰という勇者がいると聞いた天皇が倭直の祖長尾市を遣わして連れて来させるのです。

前回日本書紀から倭直と倭国造を名乗る人物を書き出しましたが、その中に吾子籠、狭手彦とは違う流れと思われる二人の人物が紛れ込んでいました。長尾市と吾子籠の兄麻呂という二人の人物です。この二人の人物は同一人物で吾子籠(大伴狭手彦・穂積巴堤)の兄、磐(磐弓)のことだろうと思います。
そして葛城襲津彦と野見宿禰を結びつける重要なところが「故、当麻蹴速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ」というところです。当麻は現葛城市の地名である。悉くとあるから葛城一帯全てを領土してもらったということになります。つまり襲津彦が葛城という姓を名乗っている由来です。

神武紀では東征を終えてすぐに倭国造を任命されたように記されていますが、実際はかなり後のことで、この崇神紀が七年とあるのはおそらく筑紫に下って六年、倭に戻ってきた翌年を筑紫滞在から数えてそのまま七年としたのだろうと思います。つまり倭の地を仁賢天皇から取り戻すと同時に、仁賢天皇と同盟関係にあった出雲へも征討軍を派遣していたことがここからわかると思います。野見宿禰と当麻蹴速の相撲は実際は仁賢天皇との戦いで、劣勢に陥った継体天皇が出雲征討に向かっていた葛城襲津彦(大伴狭手彦、穂積巴堤、吾子籠)を呼び戻したのではないかと考えます。つまり当麻蹴速こそ仁賢天皇ということです。

この当麻という地名なのですが、以前天日槍とその子孫の系図を書きだしていて、但馬(タジマ)と日本書紀の当麻の呼び方、タギマが大変似ているように思えました。そして清彦の子供の須鹿之諸男と菅竃由羅度美のスガは、素戔嗚尊と奇稲田姫が新婚の館を築いたという出雲のスガの地を指すのではないかとおもいました。播磨国風土記には天日槍と葦原志許乎命(大国主命)が国占めをする場面が何度も出てくるので天日槍は但馬国に拠点を持っていた仁賢天皇と考えていいだろうと思います。仁賢天皇がもう一つの拠点として影響力があったのが当麻(タギマ)を中心とした葛城市一帯。それは飯豊青皇女の拠点です。継体天皇と仁賢天皇が天皇になるために天皇の継承権を持っていた飯豊青皇女を争いますが、最終的に仁賢天皇が飯豊青皇女を手に入れます。私は但馬(タジマ)と当麻(タジマ)をかけているのだろうと思います。

また、野見宿禰の野見は祈るということを祈(ノ)ミというのでここからきていると思われます。この野見宿禰が垂仁三十二年に殉葬をやめて埴輪を立てることを天皇に申し出て、ここから土師部の職に任命され、天皇の喪葬を司ることになったという内容と一致する名前といえます。

この垂仁三十二年というのは、継体天皇治世が七年、安閑天皇治世が三年の空白も入れて二十五年ですから、合計した三十二年から来ています。この時の埴輪の記録こそ安閑天皇(日本武尊、大国主命)崩御に当たって現在高槻市にある今城塚古墳を造営した記録で、この古墳の内堤に置かれた大量の埴輪を作ったという元資料の記録を元に編纂者たちが手を加えて作った物語と考えられます。付け加えますとこの今城(イマシロ)という地名ですが、昔の記録によると昔はイマキと呼ばれていたそうで、イマキからミマキ、ミマキイリヒコ(崇神天皇)という天皇の名前を考えたのだろうと思います。

また野見宿禰の父は鵜濡渟(宇迦都久怒・ウカヅクヌ)とありますが、鵜飼というのはもともと隼人が行なっていた漁と伝えられ、葛城襲津彦が日向襲国の男だったこと、日向隼人であったことを考えると、この父の名前からも編纂者たちが真実を伝えようとして考えた名前のひとつのように思えます。またウカは尊称として、その下の都久怒(づくぬ)からクをとると都怒(ツノ)となります。つまり木角宿禰(きのつののすくね)の角(つの)です。

この地名はおそらく現在日向国一之宮都農神社がある宮崎県児湯郡都農町に由来すると思います。この神社はかつては日向一の壮麗さを誇る大変大きな神社だったそうですが、火災で神社、古文書等の資料を失い現在のような小さな神社となってしまったようです。創建は(伝)神武天皇即位六年前と伝えられ、神武を継体天皇とすると六年間筑紫に下っていたことを考えるとズバリ年数はあっています。都農、児湯縣。古墳群で有名な西都原市があるところです。

雄略九年の記録によればもともとは紀小弓宿禰が拠点としていたところで、かれが病死したあと小鹿火が小弓の葬式に出席してそのまま住むことになったので小鹿火の子孫たちが木角宿禰と呼ばれるようになったということです。

木は紀、つまり小鹿火は紀氏なのです。ただ今までブログに書いてきた通り、これは現在の和歌山を意味する紀ではありません。古代宇治市周辺を指した地名です。小鹿火とあるので物部麁鹿火の子供と考えられます。また紀小弓ですが、紀大磐宿禰の子供とするために紀を名乗らせていると思います。

紀大磐宿禰
紀小弓宿禰

磐を下によんでください。磐弓となります。

私は、この雄略九年の記録から大伴室屋大連は大伴狭手彦を指しているのではないかと思います。
雄略紀には「汝大伴卿、紀卿等と、同じ国近き隣の人にして由来ること尚し」と記されているので、同じ国とは日向国のこと、近き隣人というところから大伴磐(穂積磐弓)と大伴狭手彦(穂積巴堤)は父(大伴金村・穂積押山)を同じくしますが母が同じ日向国内の、違う部族の女性から生まれていると考えました。兄の磐は日向国児湯の部族の女性から生まれ、弟の狭手彦は日向国襲の女性から生まれたというように。大伴磐(穂積磐弓)を小弓とするなら、小弓はコユ(小弓)と読めなくもありません。

wikipediaによれば二人とも蘇我弟名子が生んだ子供となっていますが、日本書紀を読んでいると弟橘媛と狭手彦の間に絆が深く感じられるのですが、磐との間にはまったく感じられません。
推古三十二年十月条の記録ですが、ここで大臣は前後の話の流れから蘇我馬子と解釈していますが、「葛城県は元臣が本居なり。故其の県よ因りて姓名を為せり」とあるので実は大臣は葛城襲津彦なのです。葛城をほしいという大臣に天皇は「今朕は蘇我より出でたり。大臣は亦朕が舅(をじ)なり」といいます。ここからこの天皇は弟橘媛が生んだ欽明天皇ということになります。

この雄略九年の記録には紀小弓宿禰、蘇我韓子、大伴談宿禰、小鹿火宿禰、大伴室屋大連の五人の登場人物がいますが、これは時代の違う二つの出来事を合体させていると思います。大伴談宿禰、おそらく大伴金村と磐弓が新羅の変で亡くなり、弟の大伴狭手彦一人が残った。それで最終的に兄から引き継いで倭国造となったのではないかと思います。蘇我韓子と小鹿火のふたりは紀大磐宿禰と関わる事件、おそらく火焔皇子の乱に絡んだ物語なのではないかと思われます。

さらにここで吾子籠の名前の由来について私の考えを述べたいとおもいます。雄略十七年春三月条に土師連が祖吾笥(あけ)が出てきます。籠にしても笥にしても竹で編んだ籠です。さすがに吾子籠を吾子笥にするわけにはいかなかったのだと思います。この吾笥が欽明紀に登場する阿賢移那斯(あけえなし)ではないかと考えます。吾笥・猪名氏(現在私が住む尼崎、猪名川周辺)、つまりこの阿賢移那斯(あけえなし)はじめ河内臣などの登場人物を考えると、欽明紀に長々と記される百済や新羅との外交記録は、実は火焔皇子の乱、言い換えると隼人の乱を朝鮮半島外交の記録に書き換えたものではないかと私が考える所以です。これほど詳細な外交記録、とくに百済王の様子など、が残っているはずがありません。

とりあえず珍彦から始まる葛城襲津彦、大伴狭手彦、吾子籠同一人物説を終わりたいと思います。
明日から何故日向国襲の男が豊国に登場するのかということについて話したいと思います。



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