日本書紀の謎を解く・18(葛城襲津彦)

前回「新羅の役」について書いたが、当然任那を飛び越えて新羅が日本を襲うわけがない。当然滅亡なのだが、欽明紀にはこう書かれている。

二十三年の春正月に、新羅、任那の官家(みやけ)を打ち滅しつ。
一本(あるふみ)に云はく、二十一年に任那滅ぶといふ。

今まで日本書紀を読んで見えてきたのは、「一本に云はく」という小文字で書かれた注に、どうやら本当のことが書かれているらしいということだ。つまり二十一年が任那滅亡の年だということになる。二十一年とは古事記の二十年説に一年足した年である。それは日本書紀二十五年に一年プラスした二十六年であり、さらに継体が筑紫から戻っての即位から崩御までの七年にプラス一年した八年目である。
安閑が正式に即位していなかったのと、おそらく継体の死が公にされなかったということで継体在位期間に入れて考えるのである。
つまり継体崩御の翌年が任那滅亡で、翌九年海を越えて新羅が襲って来たということになる。

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<表の継体8年(西暦504年)新羅滅亡はミスです。正しくは任那滅亡です。>

任那滅亡の理由は、新羅の力が増大したこと、高句麗の南下にともなって百済も南下を始めた。それにつきるといってもいいのだが、やはり日本側の外交上の不手際もかなりあったようだ。その不手際を具体的に日本書紀に書かれた出来事で挙げてみると、まず新羅の奸計にはまった葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)の失策、河内直、移那斯、佐魯麻都といった反百済勢力が自分勝手にふるまい、虎視眈々と任那を狙う百済や新羅の奸計にはまってしまったこと。それは百済新羅加羅の三国で保たれていた微妙なバランスが崩す結果となった。そして百済に任那四県を割譲したことが新羅に堂々と任那を侵略する口実を与えてしまった。さらに時期悪く継体の崩御が重なり、この時とばかりに新羅が任那を襲ったということになるのだろう。

まず神功皇后、応神紀に登場する葛城襲津彦の起こした事件を見てみる。
神功皇后摂政六十二年条新羅が朝貢しなかったので襲津彦を遣わして新羅を討とうとしたとある。その注にこうある。

百済記に云はく、壬午年に新羅、貴国に奉(つかへまつ)らず。貴国沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ。新羅人美人二人を荘飾(かざ)りて津(とまり)に迎へ誘(をこつ)る。沙至比跪(さちひこ)、其の美女を受けて返りて加羅国を伐つ。
訳)百済紀に云う壬午年に新羅が朝貢してこなかった。沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たせた。しかし新羅は二人の美女を美しく飾らせて港で誘惑させた。沙至比跪はその美女を受け取って、新羅の言いなりになって加羅国を滅ぼした。

神功皇后摂政六十二年とは継体六十二歳の時を示し、百済記に記されていたという壬午年は西暦五〇二年で継体の年齢と一致する。是年は日本書紀二十五年説の二十四年で継体六年となる。
この時の記録によると、新羅を討ちにいったはずの襲津彦が新羅の用意した美女に誘惑され、新羅を討つどころか加羅国を討ってしまったという。加羅国の王は領民を連れて百済に逃げた。加羅王の妹が日本へ渡って、この事実を伝えたので天皇は怒って木羅斤資(もくらこんし)を百済に派遣して加羅国を復興させた。一説には、このとき天皇の怒りを恐れた葛城襲津彦は石穴に入って自殺したという。

襲津彦は応神十四年是年条にも登場する。

是歳、弓月君、百済より来朝(まうけ)り。因りて奏(まう)して曰(まう)さく、「臣(やつかれ)、己が国の人夫(たみ)百二十県を領(ひき)ゐて帰化(まう)く。然れども新羅人の拒(ふせ)くに因りて皆加羅国に留れり」とまうす。爰に葛城襲津彦を遣して弓月の人夫(たみ)を加羅に召す。然れども三年経るまでに襲津彦来ず。
訳)この年に弓月君が百済より来朝した。そのときこういった。「私が自分の国の百二十県の領民をつれて日本に帰化しようとしましたが、新羅が妨害して領民たちは加羅国にとどまっております」そこで葛城襲津彦を遣わして弓月君の領民を加羅に連れてきたが葛城襲津彦は三年たっても戻らなかった。

ここで襲津彦が三年帰らなかった理由は述べられない。応神十六年八月条に

平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはとだのすくね)を加羅に遣す。仍りて精兵を授けて、詔して曰(のたま)はく「襲津彦、久に還(かへりまうで)こず。必ず新羅の拒(ふせ)くに由りて滞れるならむ。汝等(いましら)、急(すみやか)に往(まか)りて新羅を撃ちて、其の道路(みち)を披(ひら)け」とのたまふ。是に木菟宿禰等精兵を進めて新羅の境に莅(のぞ)む。新羅の王、愕(お)じてその罪に服しぬ。乃ち弓月の人夫を率て襲津彦と共に来(まうけ)り。
訳)平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に遣わした。このとき精兵を授けて天皇はおっしゃられた。「襲津彦が長い間帰ってこない。おそらく新羅に妨害されて足止めをされているのだろう。汝らすみやかに行って新羅を撃ち、道を開け」木菟宿禰たちは精兵を進めて新羅に迫った。新羅の王は怖じてその罪に服した。そして弓月君の領民を率いて襲津彦と共に日本へ帰ってきた。


ここで新羅に妨害されていたということにしている。しかし日本書紀を読んできた経験上、「一本に曰く」が正しいことを書いている。死んだというのが本当のところなのだろう。

次に近江毛野臣について簡単に述べてみる。
継体二十三年に新羅に奪われた南加羅、㖨己呑を取り戻すために近江毛野臣(おうみのけなのおみ)が任那に向かう。しかし傲慢な振る舞いが多く地元の人間になじむことがなかった。しかも百済新羅両国を怒らせ領地を奪われるという事態まで招いてしまった。調吉士の報告を受け事態を重く見た朝廷は帰国命令を出す。しかし継体二十四年貴国の途中病気で亡くなってしまった。

直感なのだがこの襲津彦と近江毛野臣は同一人物ではないだろうか。大雑把なイメージなのだがよく似ているのだ。まず襲津彦が半島に三年留まったとあるが近江毛野臣も三年である。継体二十三年三月に任那に渡り翌二十四年十月に病死したとあり一年半年しか任那にいなかったことになるが、継体二十四年秋九月条に

 毛野臣(けなのおみ)、遂に久斯牟羅(クシムラ)にして舎宅(いへ)を起し造りて淹留(とどまりす)むこと二年、  一本に三年というは去来(かよ)ふ歳の数を連ぬ。
訳)毛野臣は久斯牟羅(クシムラ)に家をつくり留まること二年となった。
或る資料によると三年とあるが、半島への往来にかかった年も入れて数えたのだろう。

毛野臣が半島にいた期間に矛盾がある。
ここでも一本(あるふみ)に真実が書かれているようである。半島に行くのに一か月も必要はないはずで実際は三年近く任那にいたことになる。「舎宅(いへ)を起し造りて」は家族を持ったともとれる。内容は近江毛野臣の外交のまずさで結果として新羅に領地を奪われるということになっていて、調吉士によれば「加羅国を攪乱しつ」とあり加羅国を滅ぼしてしまった襲津彦に似る。半島に渡った時期も一致する。

襲津彦が半島に渡った応神十四年だが、十年足すと二十四年となる。なぜ十年足すかというと応神紀に記される百済の直支王(典支王)の死が干支二運(百二十年)繰り上げても六年の差があること。さらに直支王の妹新齊都媛が直支王の死後十四年もたって日本へ来朝していること。神功皇后紀に応神の太歳が己丑年とあるが、応神紀では太歳が翌年庚寅年となって一年ズレがある。さらに新齊都媛が己巳年に来朝した池津姫と同一人物とすればさらに一年ズレが生じる。そこから計算して十年のズレとした。
つまり応神十四年に十年をプラスして継体二十四年の出来事とした。応神十六年は二十六年となり継体崩御の
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続く・・・・・

<高橋佳子、記す>




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