日本書紀の謎を解く・2(エクセルで疑問を解いてみる)

「日本書紀の謎を解く・1」を二日前に書いて先ほどやっと公開した。やはり人にきちんとした文章を見てもらおうとすると緊張するものだ。一日置いて朝から推敲を重ねてみたが、はたして他人の目からはどのように見えるのか。
1の続きである。



勾大兄皇子が任那四県割譲を覆そうと詔を出すのが継体六年十二月である。
私はまだこのとき継体は存命で翌年早くに亡くなったと推測しエクセルで年表を作ってみた。

干支年と西暦を入れ、日本書紀に記される継体以前の天皇をそれぞれに色付けしたセルで
表していった。そして継体と安閑の年齢も入れていった。
そして、継体在位最終年二十八年目、二十五年目、古事記の二十一年目を七年にずらしておいてみた。
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すると、ほんの少しズレはあるものの即位のころが顕宗、仁賢の即位の時期と重なった。
しかし、何故かこのときここで二朝並立があるとは微塵も思っていなかった。
二朝並立とは継体、安閑、宣化、欽明の四朝にみられるいくつかの矛盾点を合理的に解決しようとして出てきた説で、継体亡き後安閑、宣化と欽明が対立し二朝並立があったと考えるのである。このころ私も欽明が雄略、仁賢、継体の血を受け継ぐヤマトの正当なプリンスだということに何の疑いも持っていなかったので、現在言われるように親ほど年の離れた近江出身の兄たちとの間に二朝並立があった可能性は高いと思い込んでいた。継体亡き後兄たちが天皇を継いでしまうと、当然その皇子たちに皇位はつながっていくだろうし、そうなると二度と欽明に皇位がまわってくることはない。それを恐れたヤマトの豪族たちが欽明を擁立し二朝並立状態になったことは十分にありえることだ。

そこで顕宗、仁賢のころに天皇即位はありえないとしても、日本書紀の内容から、あきらかに架空の天皇とされてきた武烈のところまで後退させた。こうすれば継体崩年も七十歳半ばとなって、ありえない年齢ではない。そこで安閑の在位年も入れてみることにした。日本書紀でも古事記でも安閑の崩御年は五三五年で一致しているので、これは絶対に正しいだろうと思った。
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こうしてみると筑紫磐井の乱は安閑天皇即位後の最初の数年のうちに入り込んだ。この時安閑天皇二年の空白はこのあたりの事情を隠すためだったのではないかと思った。
西暦は関係なく継体二十一年から二十二年にかけての出来事だとすると、継体二十一年六月に一度軍議が開かれているが、二か月後の八月に重複するような場面が出てくる。この六月と八月の間に継体が亡くなって息子の安閑に引き継がれたと考えられなくもない。


続く・・・・・・・・



 

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