吾田媛の謀反

崇神天皇のところで武埴安彦と謀反を起こす阿田媛。
この阿田媛って、邇邇芸命の妃で大山祇神の娘で吾田津媛(木花咲耶姫)のことではないだろうか。

雄略9年2月、凡河内直香賜を宗像神を祀らせるために采女と一緒に遣わいたところ、この采女を犯したために摂津三嶋の藍原で殺されたと書いてある。以前書いたように、この凡河内直香賜は南九州から来た大山祇神の可能性が高い。

そして崇神10年9月、武埴安彦と阿田媛が謀反を起こす。

雄略9年は継体9ねん、崇神10年は継体10年とする。
継体天皇は7年に崩御している。
一年から一年半かけて磐井の乱を鎮圧し、
継体9年2月凡河内直香賜が采女を犯した罪で殺され、
翌10年9月に父もしくは兄弟が殺されたことを恨みに思って吾田媛が謀反を起こす。
話がつながるようだ。

「もしくは兄弟」と書いたのは、大山祇神、鹽土老翁、国主事勝国勝長狹が同一人物とするなら、鹽土老翁から、かなりの年齢だったように思えるので、継体天皇についてヤマトに来たとは思えない。多分吾田媛の兄弟がついて行ったと考えられるので。

以前から日本書紀を読みながら、九州から連れて帰った吾田媛の子供が謀反を起こしたような感じがしてならなかった。この崇神紀の吾田媛が吾田鹿葦津媛と同一人物なら父(もしくは兄弟)が殺され、当時夫婦となっていた武埴安彦と謀反を起こしたと考えられないだろうか。

もしかすると武埴安彦は夫ではなく、息子の焔皇子の可能性もある。
古事記の内容も考慮にいれて
大河内稚子媛(吾田媛)が生んだのは、焔皇子と上殖葉皇子の二人とする。
さらに宣化紀の内容を信じてその子孫を見ると、
上殖葉皇子の子孫は天武朝に真人姓を賜っているが、焔皇子は「椎田君の先なり」だけである。

神武天皇に目をやると
神武天皇は吾田邑の吾平津媛(吾田媛と同一人物)を娶って手研耳命(たぎしみみのみこと)が生まれている。研とはキシル、タギシとは道路の平坦ならざる貌(かたち)と注には書いてある。
この皇子の苦難の人生を思わせるが、もし「貌」を顔かたちと理解すれば、「平坦ならざる」縄文系の顔を色濃く残していたのかもしれない。本当に勾大兄皇子の子供ではなく地元の男の間にできた子供なら、それはそれは彫りの深い濃い顔だっただろう。どちらにせよ、こういう顔は少し前まで日本の支配者階層が最も嫌った顔だった。自分の血を引こうが引くまいが勾は自分の子供として認めたくない気持ちが強かっただろう。現代の我々なら日本人離れした顔でメチャクチャカッコイイ皇子に見えていたかもしれないが。
手研耳命は、神武天皇死後皇位継承の争いに敗れて死んでいる。神武天皇をこの場合、継体天皇とするなら時期的に合っている。



しかし、雄略9年の凡河内香賜の記事はかなり重要な出来事のように思える。
現在の宗像大社が三女神ではなく、大山祇神が祀られる可能性があったとは考えられないだろうか。
この出来事が、筑紫磐井の乱の平定直後のことだということも重要だ。


しかし海の神様にも氏族それぞれにあったわけね。
安曇系の「綿津見神」と住吉系の「筒男命」と「大山祇神」、ヤマトがつくった「海の女神」。
どう理解していいかわかんなかったんだけど。

あ~、ちょっと待てっ!
筥って、筒状の入れ物を言わなかったか?なんだか筒男が気になってきた。
それに住吉の海の神も宗像の海の神も三人(柱)だ!
あれ、綿津見神もだったっけ? f^_^;




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