勾LOVE 復活!

あ~、ショックだわぁ。
春日皇女は、勾大兄皇子(安閑天皇)の皇后じゃなかったみたい。
あの愛の歌を歌ったのは、勾じゃなくヲホド(継体天皇)の可能性大。
あの歌で勾大兄皇子に惹かれるようになったのに。
でも、すぐに立ち直ったわ。V(^_^)V


どうやら春日皇后は継体天皇の皇后で、宣化天皇は架空だから
ひとつづつズレて
宣化天皇の皇后妃というのは実は安閑天皇の妃ということになるだろう。

日本書紀の宣化天皇の皇后と妃の名前、
景行天皇のなかの日本武尊の妃の名前をノートに書き出して
じ~~っと眺めてたら、わかってきたわ!


(^_^)☆


日本書紀の日本武尊に記されている妃
「両道入姫皇女(ふたじのいりひめ)」と古事記の布多遅比売(ふたじひめ)は
安閑紀にある安閑天皇の異母妹・神前皇女のこと。

両道(ふたじ)が合流するところとは
中山道と東海道が合流する北国街道のことを意味します。
古事記の布多遅比売(ふたじひめ)の父は
近淡海の安国造(やすのくにのみやつこ)が祖、意冨多牟和気(おおたむわけ)
近淡海の安の国とは現在の滋賀県野洲市のこと。
ここを支配していたのが坂田氏。
安閑天皇の異母妹で近江で娶った最初の妻でしょう。


そして日本書紀の日本武尊の二人目の妃、弟橘媛は、
宣化紀にある橘仲(たちばなのなかつ)皇女のこと。
二人姉妹がいたとします。姉妹の順番をあらわすときに
一番上は兄媛(えひめ)といいます。下は弟媛(おとひめ)といいます。
三人姉妹なら
一番上は兄媛(えひめ)一番下は弟媛(おとひめ)、真ん中は大弟媛(おおおとひめ)

『常陸国風土記』では倭建天皇(やまとたける の すめらみこと)の皇后は
大弟媛だと書いています。
大弟媛は三人姉妹の真ん中の媛だということ。
つまり宣化紀にある橘仲(たちばな の なかつ)皇女が大弟媛。


日本武尊というヒーローの最愛の女性を創作する時
橘の大弟媛の大をとって弟橘媛という名前にした。
日本書紀では橘仲媛は仁賢天皇皇女となってますが、
実は穂積臣押山が父親です。

皇后 橘皇女及びそのワクゴを以って、この陵合せ葬る。(中略)
ワクゴは蓋し未だ人とならずしてうませるか。

おそらく流産もしくは死産だったのでしょう。
その時母の橘仲媛も一緒に亡くなってしまいました。
それは安閑天皇が関東に遠征に行っていた最中のことでした。
関東の遠征に出かける時、橘仲媛のお腹に触れて
「帰ったらこの子に会えるのだな。楽しみにしているぞ。」
と言って遠征に出たのに、まさかそれが橘仲媛との最後の別れになるとは。
残った妃たちが関東の天皇に知らせをやる時、
使いの物弟橘仲媛の形見の櫛を持たせました。
その櫛を使いの物から受け取った天皇は

「吾妻はや(妻よ)!」と三度叫んで泣き崩れたのでした。

勾 LOVE 復活
勾は女性に優しくなくっちゃ!



でも、他にも妃がたくさんいたわ。( ̄O ̄;)
吉備臣武彦の妹・吉備穴戸武媛、これは確実ね。
それから名前が伝わらない妻(許さんっ!)
子供の名前が息長田別王だから息長氏の娘かしらね。
それからクグモリ媛。(なんじゃ!それっ!)
子供も妻もいっぱいいるじゃないっ!!プンプン!

しかし、なんで安閑紀はああいうことになっちゃたんだろう。
色々と考えて
日本の国家統一はもっと早かく、
実際より百年ぐらい早かったんだってことにしたかったんだろう。
そこで安閑天皇(建皇子)を日本武尊というヒーローとして
100年早く蘇らせ、景行天皇という名前の架空の天皇を作り
そこへ乱暴に継体天皇と安閑天皇をぶち込んだ。

そのかわり、継体天皇と安閑天皇は空っぽになってしまった。
継体紀はは百済本記で埋め合わせたが
安閑天皇は空っぽのまんま。妻なし、子なし、存在感なし。
景行天皇のところを読んでると継体年と安閑年と
安閑天皇の年齢(景行50年以上は安閑天皇の年齢)がごちゃ混ぜになっててて
注意深く読んで行けば安閑天皇の生涯を再現できそうです。
晩年はこども時代を過ごした近江の大津に高穴穂宮を移して
そこで崩御したようです。



それから、なんだか心が温まるような物語を見つけました。
欽明天皇と蘇我稲目は
生まれた日が同じだということで大の親友になったようです。
そこでエクセルの年表をだして
稲目の年齢を入れて見るとなんと同じころ生まれてたことがわかりました。
この話は本当でしょう。
蘇我氏といえば天皇の位を虎視眈々と狙った大逆臣ということになってますが
欽明天皇と蘇我稲目との友情がすべての始まりだったんだと知って
なんだか心がホッコリしました。

ある夜宮殿で開かれた宴会に欽明と稲目の二人が現れません。
安閑天皇は二人を呼び出し、なぜ出席しなかったのかと問いました。
すると「宴会の群卿百寮たちは宴を楽しむことに集中してしまい
不審者の侵入に気がつかなくなります。そこで
二人で警備をしようということになったのです。」というのです。
それを聞いた天皇は感心して、それ以後二人に目をかけ大変可愛がりました。
と景行紀にはありますが、
安閑天皇は内心「見え透いた嘘を・・・。」と思ったでしょう。
「どうせ何処かで好きな女は誰だとか、そんな他愛のない話に夢中になっていたのであろう。」
でも、安閑天皇は嬉しかったのです。
欽明を日継の皇子として周囲の人間が距離を置いて近づいてこないことを
日頃から不憫に思っていました。
ですから欽明に友ができたことを安閑天皇は心から喜んでいました。

その年、安閑天皇は欽明を皇太子とし、蘇我 稲目を大臣にしました。
ふたりとも、まだ二十歳そこそこの若さでしたが、
稲目がいずれ欽明の有能な片腕として育ってくれることを願っていました。
稲目の祖母は高句麗の女性で、さらに曽祖母も朝鮮半島出身の女性でした。
挑戦半島との外交が今後かなり難しくなることが予測されました。
朝鮮半島との間に太いパイプを持つ蘇我氏が欽明の親友となったことは
安閑天皇にとっては実はかなり好都合なことだったのです。

蘇我氏が台頭してくるキッカケは友情でした。ホッコリ・・・・・
でも歴史の真実なんてそんなものかもしれません。
権力を握ろうとして握れるものではありません。
天下を取ろうとして取れるものでもありません。
とても人間臭い些細なことから歴史はうまれるのかも・・・・・

もしかすると稲目が権力を握ろうと娘を欽明天皇の妃にしたのではなく
欽明天皇が稲目の娘を妃にしようといったかもしれません。
稲目に娘が生まれた時、キタシ媛を抱きながら欽明が言ったのです。
「おい、稲目。この娘を私にくれないか。妃にしたい。」と。
それを聞いた稲目はふっと笑って
「いいのか。俺はおまえのお舅殿になるのだぞ。」
「かまうものか。おまえは私の生涯の友だ。
皆は、私が日継の皇子だということで距離をおく。
でも、おまえは違う。私は、おまえと兄弟になりたいのだ。」
欽明は本気でした。
そこから、全てが始まったかもしれません。

σ^_^;

欽明が自分のことを特別な存在としてみていることを幼いキタシは良く知っていました。
欽明が稲目の屋敷に遊びに行くと必ず幼いキタシ媛が一番に飛び出して出迎えました。
「おじさま。私、おじさまのお嫁様になってあげる。」と
おしゃまなことを言っては欽明を喜ばせるのでした。
成長するに従い欽明は王宮でのしきたりや作法をさりげなく教えていくのでした。
皇后の石姫は子供を可愛がっているだけだと安心しきっていたのですが
キタシ姫が成人し妃となるに至って、初めて事の重大さを悟りました。
欽明のキタシ姫への寵愛が並大抵のものではなかったのです。
欽明はキタシ姫のところに入り浸ってしまい、
皇后の石姫のもとに足を運ぶことはなくなってしまいました。。

欽明天皇とキタシ姫との間には、
なんと7男6女、13人もの皇子皇女が誕生。
一年間子供がお腹にいたとして26年です。
欽明が30すぎの時キタシ媛が妃になったとして
63年の生涯をおえるまで約30年間、欽明のそばには必ずキタシ媛がいたということです。
欽明天皇のキタシ媛への寵愛が並大抵ではなかったことをよく現しています。


どうも・・・・・私の妄想にお付き合いいただきまして、
ありがとうございました。

m(_ _)m



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